「龍の棲む家」(玄侑宗久)


「龍の棲む家」(文芸春秋)は、妻に先立たれた呆け老人の次男・幹夫の介護の日々を描いた小説である。

出てくるのは、父と自分と兄、そして介護士の佳代子だけ。幹夫の母、兄嫁などは思い出という形で登場する。「呆ける」ということを悲しみと共感を持って眺め、それに付き合っていきながら、父を深く理解していく幹夫の心理を著者は淡々と描いていく。
呆けた父は龍となって天候を自在に変化させる。この龍との付き合いの中で、幹夫には同志、というより導き手である佳代子の存在が重みを増してくる。二人はやがて自然に結ばれるが、不安定の安定を感じた幹夫はそのあたりから社会と断絶した生活に気がつき、数人の飲み友だちへに手紙を書きたくなる。

人気の芥川賞作家・玄侑宗久の小説は、受賞作「中陰の花」を手に取ったことはあるが、最後まで読みきらなかった。僧侶が仏教の教えに疑問を抱いていくという物語だったと記憶している。
「龍の棲む家」は、新聞の書評で取り上げられていたので読んでみた。「呆け」という主題を扱った小説であるが、それを巡る心理描写に感心したが、心理面の介護について教えられること多かった。
いつも本を読むときは黄色のマーカーで線を引きながら読んでいるが、この小説も同じやり方で読んでみた。以下がそのしるしをつけた部分である。

介護の思想のようなものに興味を覚えたが、一方で人間の記憶のあいまいさ、記憶のおもちゃ箱、心の葛藤と表に出る言動との関係、幸せのかたち、家族の絆のしなやかさなどについて、静かに考える時間をもらった感じがする。

                                                                      • -

・徘徊と散歩は紙一重だ。
・とにかくさからわず、怒らせず、ひたすら寄り添う、、、。
・寄り添うことの第一歩は心をこめて聴くことだ
・過去はそれほそばらばらなものなのか、、。また「今」というのは、箱の縁ほど危ういものなのか、、、、、。
・近づいて「つらいね、悲しいね」と声をかけ、父の背中を手でさすった。
・症状ではなく、表現と見ることが大切なのだ。
・徘徊はやはり不安なのだとつくづく思い知った。
・手と脳は繋がっているし、いい訓練なんですよ
・人間は直立歩行して、手を使う余裕ができたから、頭が発達したんでしょ。
・老人にとって一番怖いのは便秘と微熱と脱水症状だ
・問題を深刻にしないあめには、会話の技術、というより、自在な思考と会話が両方そろわなくてはいけないのだ。
・無意識の負担感を、無意識に逆転させたいのだ、「負担をかけている人を、加害者だと考えると、わかりやすいかもしれません」
・介護の思想
・泥棒呼ばわりされるのはいつだって真面目に仕事をする介護士や寮母さんばかりなのだという。
・「どうして人は、呆けるんでしょうね」「今の自分が、自分らしいと思えないからでしょう」
・「いろんな人が父の中では死んだり生き返ったりするんですね。」
・今やその顔は、よく平家の公達の亡霊などに使われる「中将」の面のようだった」
・父の無意識には敗北感ともいえるほどの圧迫を与えつづけていたのではないか、、。
・幹夫は父のなかに龍が棲んでいるのだと思った。あらゆる天候を支配し、台風や雷も自在に起こす龍、、、、。
・子どものころにも叶わなかった自分、生きられなかった生が、ここに現れているということか、、、。