大山康晴永世名人の51歳からの大いなる挑戦

k-hisatune2009-10-11

小学生の時、担任の先生から「大きくなったら日本一になれ。何でもいいから日本一になれ」「大山は何になるか?」と聞かれ、「将棋指しになります」と答えると、先生は「よろしい。いのちがけで勉強しろ。日本一の将棋指しになれ」と励ました。 大山康晴は、その志を達したのだが、絶頂期から転げ落ちた後の、粘りが素晴らしいと思う。

大山康晴は、49歳のときに18期保持続けた名人位を失っている。そして最後のタイトルであった王将位を50歳で失う。
この大山が51歳の時に書いた文章を読んでみると、絶頂から無冠になった後の、心構えや行動に教えられる。
「無冠となって、気持ちが軽くなった。あとは、どうして立ち直ろうかと、その点にしぼってゆけばよいと自分を慰めた」
「こんどは、新しいものを身につけなければいけない。」
「五十の手習いという。私の場合もそれと同じで、五十歳で再出発をしなければならないということであった。」
「「休暇をとったつもりで、やりなおそう」と長期戦のハラを固めた。

これをいい機会として、世間や将棋界、そして自分を見直すことに時間をかけようと決心し、講演や将棋会をはじめどんな仕事でも引き受けた。相変わらず多い対局の合間を縫って、全国を歩き回って、見知らぬ人々と会っている。その間、全国各地で多くの人の激励に接して、それがあきらめの誘惑から救ってくれたそうだ。
 自分の流儀はそう簡単に変えられるはずはないが、頭から「変えられるはずはない」と決めこむのはあまりにも臆病すぎると大山は言う。旅行にも頻繁に出る、酒席も遠慮しない、そして自分が過去に名人であったことも忘れるようとしていたという。限られた枠の中で軌道の修正をはからずに、広い世間に出てみた。

「立ち直るためには、一刻も早く以前の立場を忘れることである」という言葉は、中年からの人生の転換をはかろうとしている現代人に強い示唆を与えるではないか。あの大山が名人であったことを忘れて新たな旅に出ようとしていたとは、、。

「五十歳の新人」として戦って、十段戦では宿敵・中原に勝ち、タイトルを取り返している。
「もう、年だなあ、、」と心にゆるみが生じたときに、すべてのタイトルを牛なったと述懐する大山は、そういう敗北主義を認めない。
五十一歳の大山は、誰にも破られ無い記録として「名人20期・優勝百回・千勝」という目標をこのときに掲げている。この記録を破る可能性が数字上あるのは、羽生善治であるが、それには途方もない時間がかかる。

大山は五十四歳のときには、優勝回数は112回、通算勝星1000勝を達成している。63歳では12年ぶりに挑戦権を獲得し中原名人に挑戦し話題になったが、1勝4敗で破れ、掲げた目標のうち名人位20期だけは達成ができなかった。

大山はその後亡くなるまでA級棋士として第一線で活躍し続け、通算では1400勝を超える実績をあげている。

29歳で名人位に就いた天才棋士という華やかな経歴にももちろん尊敬の念を覚えるが、私はむしろ、五十歳で無冠になってからの大山の心構え、心がけ、そしてその後の棋士としての生活に興味を覚える。

大山の五十代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。