東京新聞「安藤哲也さんのTAKIBI」。日経新聞「大山康晴名人の実像」

東京新聞の最裏面に半面を使った「町に本屋を! 谷中の実験」の記事。

先日、橘川さんらと訪問したシェア書店「TAKIBI]というBooks&Coffeeの安藤哲也さんが紹介されていた。棚主は60人。

書店のない市町村は全国の4分の一の456ある。そういう自治体に「シェア書店」というスタイルで「町の本屋」を開いていく運動をすすめようとしているのだ。安藤さんは「目標は本屋が拠点のまちづくり」。人を育み、つなぐのが町の本屋、という考えだ。「人が自然に集まり、会話が弾む場所」がTAKIBIのイメージ。


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日経新聞文化欄に「地元秘書が見た大山康晴」の記事。将棋の第15世名人。地元秘書とは倉敷市大康晴名人記念館の北村実館長。2023年は大山名人の生誕100年。この記念館には2014年に訪問したことがある。

  • マチュア大会で、大山はたばこの吸い殻や弁当柄を片づけて回る。
  • 「毎回ご苦労じゃな」と気さくに声をかける。
  • 愛好者なら分け隔てなく指導する。
  • 「早く種をまかなぁいかん」と寝言。
  • これほど全国各地に足を運び普及に力を入れた棋士は後にも先にも現れないだろう。

提供者:Tripadvisor

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「名言との対話」8月1日。箕作阮甫「日本初の大学教授」

箕作 阮甫(みつくり げんぽ、寛政11年9月7日(1799年10月5日) - 文久3年6月17日(1863年8月1日) )は、日本の武士・津山藩士、蘭学者

岡山県津市出身。藩医の家に生まれる。儒学、医術を学んだ後に江戸で宇賀川玄真門下で洋学の道に入る。

1853年(嘉永6年)のペリー来航時にアメリカ合衆国大統領の国書を翻訳した。同年のロシアのプチャーチン来航にあたっては長崎で交渉の一員となった。

1856年に江戸幕府が開設した「番所調所」の首席教授をつとめた。1858年には尽力して「お玉ヶ池種痘所」を開設。後に番所調所は東大、お玉ヶ池種痘所は東大医学部になる。

箕作阮甫は日本初の医学雑誌を皮切りに、外科、産科、水蒸舟など99部160冊余の訳述書を刊行した。分野は多岐にわたり、医学、語学、西洋史兵学、宗教学と広い。アメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理などを網羅した1861年の翻訳書は幕末の志士たちに大きな影響を与えた。1862年の『和蘭文典』は、蘭学を学ぶ者に大きな便益を与えた。また、キリスト教旧約聖書の翻訳書『読旧約全書』も刊行している。

箕作阮甫幕末に活躍した知の巨人であった。その後、箕作一族は有為の人材を輩出していく。

阮甫の養子の箕作省吾(1821-1846)はベストセラーとなった世界地誌を現したが26歳の若さで夭折。

阮甫の養子の箕作秋坪(1825-1886)は2度の渡欧を経て、国事に奔走、維新後は文明開化に尽力した。

箕作省吾の長男の箕作麟祥(1846-1897)はナポレオン法典の全訳を完遂し、日本の民法の編纂に尽くした。

箕作秋坪の次男で父の実家を継いだ菊地大麓(1855-1917 )は、東大理学部数学科の日本人初の教授。東京帝大と京都帝大の総長、文部大臣を歴任した。

箕作秋坪の三男の箕作佳吉(1857-1909)は。東大の日本初の動物学教授。海洋動物学の第一人者で、真珠養殖に成功した三木本幸吉を指導したことで有名になった。

箕作秋坪の四男の箕作元八(1862-1919)は、昭和天皇に最大の影響を与えた西洋史学者だった。

こういう学者たちの子孫も、おそらく一廉の人物が多く輩出しているだろう。一人の傑出した大学者が現れると、その影響で一族にも優れた学者が輩出するようだ。

師でもあった宇田川玄真の洋学の家も、三代にわたって優れた洋学者を生んでいるが、東大をつくり日本初の大学教授となった箕作阮甫は、多くの分野に「日本初」の教授を生み、それぞれの分野で明治以降の科学を推進する後継者を輩出したことになる。一人の力は小さいが、一人の力の大きさを思い知る機会になった。