母の一周忌で中津に帰っています。
夜は高校の同窓会。13人が集合。一次会は韓国料理。
二次会はワインバー。
三次会もワインバー。
昼は中津城近くの、図書館、蓬莱園。
かきかけ
「名言との対話」6月24日。本因坊秀哉「碁が自分の生命と思っているからやれるので、とても頼まれてやれることではない」
本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい、1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日)は、明治から昭和にかけての囲碁の棋士。家元本因坊家の二十一世で、終身名人制の最後の名人。
東京都出身。10歳で囲碁を始める。11歳、方円社。除名される。19世本因坊秀栄門下。
1908年、34歳、21世本因坊。1911年、8段。1914年、41歳、名人。1924年、日本棋院。1933年、59歳で20歳の清源呉に勝利。1936年、本因坊を日本棋院に譲渡。選手権制。
1月18日は秀哉忌。秀哉賞がある。
TBSラジオで語った原稿があった。囲碁が日本へ渡来したときのこと、渡来後に後にどのように日本の囲碁がが発達したか、第一世本因坊のこと、支那(中国)の囲碁の現状、そして全盛期を迎えた囲碁界の様子、最後に囲碁の国際化について論じている。彼によれば以後は国技である。
終身本因坊を自分の手で配して日本棋院に譲渡して、選手権制にするという歴史的な大決断をしている。将棋の世界においても名人は終身制から選手権声に移る、そういう時期であった。そして手にした名人位も同じ判断をした。そういう意味では囲碁の歴史と未来への展望を持った人であったように思う。
囲碁は国技であり、その頂点に位置した人が、自分の命と考えていたから、できた決断だっだのであろう。