塙保己一・高山辰夫・奥田元宋・白隠

都心で時間が空いたので、渋谷を中心に人物記念館、美術館をまわる。
以下、簡単な備忘録。


7歳で失明。菅原道真公を守護神。賀茂真淵門下。36歳から41年かけて「群書類従」670冊(25部門)を刊行。76歳で死去。群書類従の完成によって貴重な書物の散逸がまぬがれた。桜の版木は17.244枚に及ぶ。彫師・刷師、、。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士(電話の発明者)から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話。「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐。「群書類従」は塙保己一の死後200余年も事業が継続しており既に70万冊に及ぶ。1冊でも頒布している。聖徳太子17条憲法と竹取の翁物語を購入。温故学会は塙保己一の遺志を継承して大成することを木t暦として1909年公益法人化。渋沢栄一は発起人の一人。この立派な温故学会会館の設立にも同郷の渋沢栄一の援助があった。塙保己一は本を人に読んでもらってそれをすべて覚えていたという。盲目でこのような事業を完成させたことに感銘を受ける。15歳で江戸に出て、衆分、29歳勾当、37歳検校、75歳総検校に進む。


日本画の巨匠の二人は同じく1912年6月の生まれ。どちらも90代まで絵を描いた。日展。ライバル。
高山辰夫は大分生まれ。松岡映丘に師事。ゴーギャンに系統。1975年日展理事長。1982年文化勲章
「自分が決めたことをやって、最後まで自分の旗をあげていければ良い」
「永遠ということ、それが掴めればと思う。永遠が無いはずはないと僕は思う。、、そのことが僕に絵を描かせているかもしれません。
億だ元宋は広島生まれ。1977年日展理事長。1981年文化勲章。1981年69歳で歌会始の召人。「彩れる 秋写さんと山峡(やまかい)に 木葉時雨の音をききをり」。
日本画滅亡論を吹き飛ばしたいという意地があった」
「半心半眼」(心でとらえた姿を描く。ありのままを描写するのではない。写実と写意のバランス)
「絵は心」
山崎種二名誉館長。「絵は人柄である」を信念として画家と親交。上村松園川合玉堂、山口ほう春ら官展系と親しい。東山魁夷(1908-1999年)は種二の息子の山崎富冶と二代にわたって親交。


臨済宗中興の祖・白隠(1685-1768年)。沼津生まれ。80年の生涯。15歳で出家し諸国行脚。41差で大悟。禅宗を広める手段として書画を用いる。絵解き説法。達磨(禅宗の開祖・300点以上を描く)、釈迦、観音(永遠の母の面影・しもぶくれ)、七福神、など。墨跡はグラフィック文字。寿(いのちながし)は百の書体。隻手。円相(十方、虚空なく、大地、寸土無し)--円の解釈は見る者に委ねられている。
「道中工夫」(同中の工夫は静中に勝ること百千億倍)
「直指人心 見?性成仏」(まっすぐに自分の心を見つめて仏になろうとするのではなく、本来自分に備わっている仏性に目覚めなさい)
福神見?温公語「子孫に金を残しても仕方がない。子孫に書物を残しても読みはしない。それよりも徳を積みなさい)
「出山釈迦」という作品は中津の自性寺のものだったのでびっくり。

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