『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)(深夜叢書社)を読了。
神奈川県近代文学館で開催されている企画展を訪問する準備として、山本周五郎に関する本を読んだ。
横浜市の旅館・間門園には山本周五郎が創作の場として独居していた離れ家があった。そこで2年弱、秘書として仕えた著者の日記である。山本周五郎61歳から63歳で、著者は27歳から29歳。素顔の山本周五郎がわかる本だ。
山本周五郎の日常と人生観がよくわかる。そこに絞ってピックアップしてみたい。
・いわれてからするのは用ではない。
・僕は物書きですから全部作品の中でいいます。
・食べ物だけは「ぜいたくさせてね」
・女性の出産より苦しいよ。
・人生は点のように短いものだから一日を大切にするんだよ。僕の人間を見る眼を良くみておきなさい。
・恵まれなかった生涯と合わせてベートーベンの作品が好き。
・家庭に入ったら働いてはいけない(収入を得るな)男が駄目になる。
・人間は弱いから温かい環境にいては仕事ができない。仕事を別に持って独居している。
・日本酒は醸造だから体に悪い。飲むならウイスキーに。保証人の印だけは押してはいけない、お金を貸すならあげるつもりで貸すこと。
・より多くの人に意味がわかって読んでもらえる本が良い。ヘミングウェイをみなさい。
・女優には会わない。将来性のある男の人には話をする。
・自分の作品には挿絵はいらない。
・食生活で健康の90%は維持できる。
・時代物を書いているつもりはない。本当のことでなければ書かない。
・日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い、あとは外国の作品を読みなさい。日本は島国で視野が狭いから。
・人間関係ができるとその人を通じての仕事を尊重する。
・酒をうまいと思って飲んだことはない、誇張していえば、いつも毒を飲むような気持ちだった。
・相手のためになること、正しいと思うことは立場を無にしていうこと。
・多くの人に読んでもらえる安い価格の文庫を好む。・
・作家を志す者は毎日書け。書く習慣をつけること。同業者が集まっても得るものがない。そんな時間があったら下町を歩いた方がよい。
・お金は貯えるものではない。お金は使うためにある。
・座右の銘はストリンドベーリの書「青春」より。「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」
・文壇で現役でなけれな生きていたくない。
・僕には一生書き切れないテーマを持っているので時間がない。
・五十を過ぎたた「ながい坂」を読んでごらん。僕の書いたもののなかで最高の作品だよ。
・山本質店では物干しにござを敷いて勉強した、僕のように総て独学の作家はもう出ないでしょう。
・僕の人生は失敗しなかったことが失敗だった。
・政治は庶民のことは何もしてくれないから関心を持ってはいけない。
「名言との対話」10月3日。平林たい子「私は生きる」
平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年(明治38年)10月3日 - 1972年(昭和47年)2月17日)は、日本の小説家。
父が上京するたい子に言った言葉が残っている。「女賊になるにしても一流の女賊になれ」。たい子の人生をたどってみると、その教えの通りに生きたという気がしてくる。諏訪高女に首席入学するが、卒業式の日に上京。アナキスト山本虎三と同棲。19歳、林芙美子と知り合う。22歳、小堀甚二と結婚。プロレタリア作家として世に出る。42歳、「こういう女」で第一回女流文学賞。47歳、ニース世界ペン大会出席。52歳、女流文学者会会長、55歳、民社党党友。57歳、韓国ペンクラブ出席。59歳、オスロ国際ペン大会日本代表。62歳、中央教育審議会委員。63歳、「秘密」で第7回女流文学賞。64歳、評伝「林芙美子」。65歳、ソウル国際ペン大会日本代表。67歳、評伝「宮本百合子」。凄まじい人生であったというほかはない。諏訪の記念館ではたい子の生涯を追憶した。
「自伝的交遊録。実感的作家論」などの著書もあり、人物論にも定評があったが、最晩年には二人のライバルの評伝を書いている。一人は貧乏時代を一緒に過ごした林芙美子で、「晩年をかたる適任者ではないが、若い頃のことは、よく知っている方であろう」といって書いたが、芙美子の心の内側に遠慮なく達って書いたため、生き生きと迫力に富む評伝になっているそうだ。もう一人は、たい子生涯の最大のライバルであった宮本百合子の評伝である。この評伝を書き終えた年の2月17日に、67歳で逝去する。
平林たい子は、女流文学会会長をつとめている女傑だが、一生を眺めるとすさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動に驚く。「既婚の婦人は既に消費社会に入った商品であり、未婚の婦人は未だ流通過程にある商品である。」(「男性罵倒録」)。
「わが母がわれを 生ましし齢(よわい)は来つ さずけたまひし 苦を苦しまむ」。平林たい子は、与えられた生を生き切ったのである。