九段で寺島実郎さん。新宿でゼミOB。恵比寿で白川義員写真展。

jiturou 九段の寺島文庫で寺島実郎さんと面談。

近刊と報告書を贈呈し、近況報告と今後の計画を報告。

『図解コミュニケーション全集』第2巻。『現代世界解析講座ーー学びの軌跡』。

f:id:k-hisatune:20210313055214j:image

久恒啓一論。友人たちとの会食。「リレー講座」は貴重。

ーーーーーーーーーーーーー

新宿で久恒ゼミ生OBと昼食。28歳。一度転職し、苦労もあったが、落ち着いている様子で安心した。ZOOMでのゼミ同窓会の話題も。

ーーーーーーーー

恵比寿ガーデンプレイスの「東京都写真美術館」で白川義員写真展「永遠の日本」をみてきました。前期は「永遠の日本」(11作目写真集)、4月の後期は「天地創造」(12作目)となる。この二つの写真集で生涯のテーマ、ライフワークが完成した。

1962年、27歳から58年間で、2018年、83歳までで計画どおり、『アルプス』『ヒマラヤ』『アメリカ大陸』『』『聖書の世界』『中国大陸』『神々の原風景』『仏教伝来』『南極大陸』『世界百名山』『世界百名瀑』『永遠の日本』『天地創造』の全12作を完成した。

「球再発見による人間性回復へ」の旅を「前人未踏を往く」精神で143ヵ国と南極大陸の踏破した。想像を絶する偉業である。

詳細は別途記したい。

天地創造: 白川義員作品集

天地創造: 白川義員作品集

 

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月12日。花登 筺「泣くは一生 笑うは修行 勝つは根性」

花登 筺(はなと こばこ、 1928年昭和3年)3月12日 - 1983年昭和58年)10月3日)は、滋賀県大津市出身の小説家、脚本家。

滋賀県大津市近江商人の家に生まれる。同志社大学商学部卒。フリーで脚本を書く。1954年、東宝と契約しラジオの台本作家となる。1958年、『やりくりアパート』で脚本家としてデビュー。1958年、東宝から独立し『劇団・笑いの王国』を設立し、大村崑芦屋雁之助芦屋小雁らが参加し、1963年に解散。直弟子に花紀京、孫弟子に間寛平

昭和30年代の上方喜劇ブームの立役者で、テレビ草創期におけるスター脚本家である。大阪商人を主人公とした商魂物・根性物を多数執筆した。常に原稿用紙に向かっており、書くスピードが速く「カミカゼ作家」「新幹線作家」の異名もある。最盛期における執筆ペースは月に原稿用紙2000~3000枚というから、一日70枚から100枚のペースという恐るべき仕事ぶりだった。生涯に書いた脚本の数は6000本を超える。

代表作に「番頭はんと丁稚どん」「どてらい男」「細うで繁盛記」などがあり、私も楽しんでいた番組の脚本をこの人が書いていたのだ。生涯3度の結婚歴がある。最初の妻は武智鉄二の義妹、2人目は女優由美あづさ、最後は女優の星由里子である。複雑なストーリー展開と悔しさや恨みを練りこんだ出色の感情表現ができたのはこういった経歴のおかげでもあるかもしれない。

新珠三千代主演の 「細うで繁盛記」は大人気だった。舞台のモデルとなったのは伊豆の大東館は知名度が上昇し繁盛した。テレビ番組のオープニングでは主人公・加代役の新珠三千代の「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾(つぼみ)は血がにじんだように赤く、その香りは汗のにおいがする」というナレーションが入った。 敵役の正子役の冨士眞奈美「犬に食わせる飯はあっても、加代、おみゃあに食わせる飯はにゃあだで」などの台詞で、こちらも人気を博した。

 「どてらい男」は、大阪の大手専門商社「山善」を興した山本猛夫をモデルとした立志伝だ。3年半にわたるヒットシリーズとなり、歌手の西郷輝彦が俳優としての地位を確立したドラマとなった。山善ミュージアムがあり、「どてらい男」の映像がたのしめる。山善の商談会「どてらい市」は、『どてらい男』にちなんで名付けられた。

 1986年には、 遺族の寄付金をもとに、青少年の文芸活動推奨を目的とした「花登筐文芸奨励賞」が設けられた。また遺族から8300点超の資料(著作・脚本・蔵書など)の寄贈を受け、大津市立図書館本館に「花登筐記念文庫」コーナーが設置された。

大阪商人を描いた花登筺が大阪出身ではないのを不思議に思う人が多いようだが、この人には近江商人の血が流れている。近江商人を指す「江商」は、大坂商人伊勢商人と並んで日本三大商人の一角を占めていた。商人の素質があった人だから、商人ものが書けたのだろう。

故郷の滋賀県大津市浜大津琵琶湖岸に「花登の顕彰碑」がある。石碑には「泣くは一生 笑うは修行 勝つは根性」と花登の座右の銘が刻まれている。人生は辛いこと連続で、泣きたくなることだらけだ。その辛さに耐えるためには、笑って日々の修行に取り組もう。そしてひたすら、ひたむきに取りくんでいくと勝利にたどりつく。そういう意味だろうか。この言葉に励まされる人も多い。