『50歳からの人生戦略は「図」で考える』:発刊1ヶ月。プレジデント社報告、アマゾン書評、新大阪ブックスタジオ、天狼院書店セミナー(8月16日)

『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)の発刊から1ヶ月経ちました。丸の内丸善の大型ポスターや大型書店での面陳(メンチン)でスタートしました。以下、最近の動きです。

 

 

アマゾンの書評から。

  • 人生の棚卸を通して自分の生きる道を俯瞰して考察できるツールを提供していただいた。お勧めの書籍です。
  • 50代でどのような人生戦略を立て、ライフデザインを描けばいいのか?その人生戦略やライフデザインを、著者が考案した「人生鳥瞰図」を使って導く方法をお伝えするのが、この本のねらいです。・自分が影響を受けた「生い立ち」「出会い」「出来事」により、どんな「価値観」が育まれたのかを明らかにする。・「性格」「関心」「能力」の3つの側面から「自分像」を抽出する。・「仕事歴」「学習歴」「経験歴」から、これまでの「キャリア自分史」を再確認し、壮年期に向けた「キャリア目標」を考える。偉人には遅咲きの人が多いですが、遅咲きの人たちに共通するのは、いつも「今から」と考えていること。自分のピークはまだ先にあると思っていますね。「50代は人生の後半の始まり」と捉え、あとは力が徐々に衰えていくことを受け入れて生きるのか。それとも、「50代こそ新たな人生戦略を立てるとき」と捉え、人間としての完成に向かって、より充実した人生を送りたいと望むのか。本書を参考に、自分で自分に満足できる素晴らしい人生を送ることを目指しましょう。
  • 著者が作成を薦める人生俯瞰図とは、自分というものを再認識させてくれる優れた手法である。著者が開発した図解手法によって、頭の中で漠然を考えていたことを、客観的に自分の人生における価値観であると気付かせ、今後の自分の人生の向かうべき方向を明示してくれる。確かに、現在の自分は生い立ち、出会い、出来事によって形成された総体であることが人生俯瞰図を作成する過程で次第に発見することになる。タイトルは50歳とあるが、70歳代の自分にとっても、今後の人生の生き方に大いに参考になる。著者によると、人生100年時代を迎え、70歳は実年期で、その意味では自分の人生の実を成らせる時期ということである。70歳になると、余暇という時間を他人に迷惑をかけることなく、どのように消費していくかと消極的人生観になり勝ちである。70歳でも遅くない、自分がやりたかったこと、出来なかったことを気付かせ、何かにチャレンジしていこうという気概を喚起してくれる著作である。
  • 人生100年時代に自分の人生を棚卸しし、いつまでも活力ある生活を送るためのヒントが見つかる書籍です。また、文章ではなく図とすることで、関係性がわかりやすく、全体を俯瞰して整理できる気がします。

版元のプレジデント社からの報告。

  • 粛々と売り上げを延ばしているという感じで、特にジュンク堂紀伊国屋書店といった真面目な本屋さんで売れているといった状況。
  • アマゾンのオーディオブック(アマゾンオーディブル)の依頼あり。
  • 新大阪駅にあるブックスタジオ新大阪店でサイネージ看板(電子看板?)。
  • G出版社のオンラインで要約版が流れることに。

 

8月16日に天狼院書店でセミナー。「50歳からの人生戦略は「図」で考える」発刊記念 『「図」で考える』ための120分基礎特講。

tenro-in.com

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夜は「深呼吸学部」を覗く。集宙。みんだびラジオ。ダヴィンチ。反転授業。

図解塾のZOOM動画を整理。1期5本(2020年9月から)。2期12本(2021年1月から)。課外8本。これは財産だ。

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「名言との対話」8月14日。ゴーマン美智子「疲労を乗り越えて、ある日突然自分の身体が一段上にシフトされるのが感じられるのだ」

ゴーマン美智子(ゴーマンみちこ、英名:Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子、1935年8月14日 - 2015年9月19日)は日本出身でアメリカ在住の女子マラソン選手。

中国の青島(チンタオ)で生まれ、東京育ち。28歳で学生ビザで渡米という遅い出発だった。いくつかの家庭で過ごす。「自由と独立」が美智子の希望だった。いくつかの条件の良い申し出を断っている。「たった一度の人生ではないか。思う存分自分で開拓できないでどうする」。「最も退屈する男は人の造ったポリシーの中にちんまりと坐って自分の意見も持たず手も足も出ない男である」。

『走れ!ミキ ゴーマン美智子』(文春文庫)を読んだ。

ラソンに入るきっかけは、夫のマイクが「あーあ、君がもう少しフランシーのようにアスレチックだたら良かったのになあ」だった。その言葉で美智子は頭をむっくりと持ち上げる。後に世界記録保持者になるジャクリーン・ハンセンの指導者のマラソンコーチに師事する。38歳だった。ハンセンに、「まあ驚いた! 自殺するつもりなの!?」 と言われた。そこで負けん気が立ち上がってくる。

1973年12月3日のウェスタン・ヘミスフィアマラソン(現カルバーシティ・マラソン)で非公認世界記録]となる2時間46分36秒のタイムで優勝、ジャクリーン・ハンセンに土をつける。4ヶ月後の1974年4月、38歳でボストンマラソンで2時間47分11秒で優勝、同マラソンでは1976年に2位、1977年には2度目の優勝を果たした。ニューヨークシティマラソンでも1976年(41歳時)、1977年(42歳時)と2連覇している。この二つのラソンを同一年に制したのは他に1人しかいない。また、日本出身の女子選手としてこの2つのレースに優勝したランナーは彼女のみである。

その美智子にして40歳まじかになって子宝に恵まれる。乳を含ませるとき、「世界記録よりも、ボストンの優勝よりも、何よりも女として、最も幸せなひととき」と感じている。そして出産後、1ヶ月後から走り始めて、カムバックを果たしていく。

少女時代を過ごした南会津町では功績を称え、1986年からゴーマン杯ふるさと健康マラソン大会(現在はゴーマン杯南会津町ふるさと健康マラソン大会)が開催されている。

ゴーマン美智子の名前は知っていたが、152センチ、40キロの女性がマラソン選手として成長していく物語を読んで尊敬の念を覚えた。女子マラソンの世界を切り拓いた人である。第1回東京国際女子マラソンへ招待されている。日本女子マラソンにも影響を与えた人である。

「何かしなくてはならない或る地点に来て、たまたまランニングが与えられ、それが私に適していただけ」というが、「あれだけのトレーニングを積むことが出来るか、出来ないかが問題なのだ」と猛練習を積む。そして、「人間の身体は面白いものだ。外部から与えられた刺激を見事に消化して、徐々に調整されて行くものである」と会得し、「疲労を乗り越えて、ある日突然自分の身体が一段上にシフトされるのが感じられる」との実感のこもった言葉を語っている。何かをやり抜いた人の言葉ははやり重い。