「図解塾」課外授業10回目ーーテーマは「独学者列伝」

図解塾。課外授業。テーマは「独学者列伝」。以下、講義メモ。

毎回、資料がまとまっていくのが嬉しい。

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以下、塾生の感想。

  • 本日も濃い2時間をありがとうございます。いつもながら長年にわたり蓄積された人物記念館、「名言との対話」データベースの威力はすごいと思いました。「独学」のテーマで非常に多くの人々の生き方や学び方を教えていただきました。この時間の最初に「独学とは」という問いがあり、ほぼ全員が「自主性」という意味のことを答えていましたが、話を聴いているうちに、「既存の権威によりかからない」「学歴に頼らない」「その分ものすごい勉強量”怒濤の仕事量”」ということに気付きました。そして、すでに社会は学歴や組織に頼る時代ではなくなってきています。型にはまらない能力をつぶさないで生かせる環境をどう作っていくか、上の世代の大きな責任です。また、独学について思い出したテレビの番組がありました。それは「ブラタモリ」。地域の解説をする方たちは、必ずしも大学教授などではなく地域に根ざして長年研究をしてこられた方も少なくありません。また、先週の「青天を衝け」の中で渋沢栄一の父親が亡くなりますが、仕事の傍らずいぶん本を読んでいたことが分かりました。課外は図解塾のメンバーでなくても参加できるとのことで、今後、これはと思う方に声を掛けてみようと思います。
  • 本日もありがとうございました。独学のテーマでの人のお話。毎回思いますが、先生の名言との対話こそ独学ですね。それをお話いただいて、ものすごくお腹いっぱいとなりました。自分がこれ!と思ったことをとことん突き詰める。他人のまねをしない。それが、自分で自分を作る。自分というものを表現する場をもつ。ということになる、ということですね。これからの自分のヒントとなることばかりでした。ありがとうございました。次回はまたまた千本ノックですね。よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。今回のお題は「独学」。「我流」とか「素人はだし」などという、どちらかというとあまり好意的に受け止められ難い、ネガティブな意味合いとして捉えていた言葉でした。今迄の「学び」の認識は、既存のカリキュラムに沿って知識要素をひたすら積み上げるというモノ(いわゆる、勉強)でしたが、確かにこれだけですと「何の為に学んでいるのか」先が見通せない為、なかなか持続は難しそう(いや、できなかった)。何よりも皆同じプロセスで学んだ成果はこれまた皆同じ凡庸なものでありましょう。一方、本日の言葉のシャワーで浴びせ掛けられた、あらゆる第一人者の名前と夫々の「独学」で成した学びの背景を知ることで、俄然ポジティブで発展性に満ちた真の「学び」であると、がらりと印象が変わっていきました。共通した「独学」のプロセスは、①ハングリーな状態で「すごいもの」と出会う。②その「現物」に益々興味を覚えのめりこむ(好奇心)。③周りの目を気にすることなく、時には勇気をもってその世界へ飛び込んでいく。④素直な心で様々な情報を否定せず咀嚼・吸収していく。⑤益々のめり込みを継続し、結果一つの世界観を得る。⑥嫌われようが誰もが認める「独創的な魅力」をモノにする…あー、安藤忠雄さんのお写真眺めながら、なんか勝手に納得してしまいましたが、果たして自分にとっての「すごい出会い」とは何やねん!とセルフ突っ込みしつつ、今後も学び続けるぞと思いを新たにした次第です。次回もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生本日はありがとうございました。今の自分にとって、先達の広がりと深まりを味わい、勇気と自己確信が得られた時間でした。これまでの独学者の残した言葉や学び方、歩んだ道のりを全て彼らの意図する解像度で理解できているわけではありませんが、これまで自分が歩んできた文脈と部分的に共鳴するものがあり、自己確信の高まりにつながりました。 正直なところを広げると、私にはわかりやすい学歴がなかったり、ずっとあまのじゃくに生きてきた所がありました。いくつかとりわけ今回自分に響いた内容を自分の文脈と併せて共有させていただくと、江崎利一「学問に実地が伴えば、鬼に金棒であるが、実地に学問が伴えば、それこそ鬼に金棒以上のものであろう」学校や書物から得た学びに体験が追い付いたときに感じた感触が前者のイメージ。後者のイメージも自分のここ一年半近くの活動の中で起こったことに近いと感じました。約一年半くらい前から、言葉あそびが好きでにキャッチフレーズや屋号等を考える「言語化のお手伝い」をしていました。進めていくうちに何のためにキャッチフレーズがほしいか、自分だけのキャッチフレーズが出来上がると何が捗るかという深掘りをするようになりました。すると、「それができると自分がはっきりする」、「自信がつく」。それを受けて、「じゃあそもそもそうして自信を得られないのか」というような、まずモヤモヤの紐解き、言葉にしていく時間になりました。もはやそれは「言語化のお手伝い」ではなく、1対1のカウンセリングの提供でした。限りなく目の前の人のニーズに寄り添おうとはしたものの、率直に言って自分はやぶ医者でした。それからは、普遍的な人との向き合い方を学問の面と実地の面で経験を積み重ねていきました。学問を伴った実践者に話を聴いたり、発達心理学からキャリア形成論、メンタルモデルにU理論、傾聴、最終的にはナラティブ・アイデンティティという概念に至りました。学問的に紐解かれてい民間の概念においても、伝統的な意識進化のプロセスに触れるべくネイティブアメリカンのFirst Peace Circleに触れたり、本質的なつながりを味わうアティテューディナル・ヒーリングなど、実地につながる学びを深めていきました。そうして、そのすべてを折々の対人セッションで実地を重ねていきました。今振り返ると、忙しくも充実していた時間であり、好奇心の赴くままの探求だったので、自分の持つ伸び率もえげつないものがあったと思えます。・レオナルドダヴィンチ「自分は無学だ」「知恵は経験の娘」 そうした実地を重ねていく中で、人との向き合い方や「悩みとは何か。どこからきて、どこへいくものか」、パターンやサイクルに自分なりの仮説が見えてきました。まさに経験が生んでくれた知恵だったと言えるのかもしれません。とはいったもの、独学を進めれば空埋めるほど、世界には知らないことであふれていたり、自分が紡いだ知恵を別の言葉で表現されていることがあることにすぐに気が付きました。ああ、無知の知。僕はレオナルドダヴィンチではないけれど、そうして体感した世界が紡いできた叡智の広さと深さの前には、思わず「自分が無学だ」と打ちのめされるような、一生味わい尽くせるなあと不思議とぞくぞくする気持ちがありました。それからは、人の言葉や読書は半部答え合わせのような、別解や似た結論でもどのような旅路をたどってきたのか形になったものなのか、プロセスを味わう喜びを知りました。広岡浅子「犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません」 お話を聴いてふと感じたこと。俗っぽい言葉になりますが、「男を尻に敷く」技術・手段こそ学問だったのかもしれません。男の実地に金棒を添えるもの、または女性起点の学問が男の実地を動かしていくという視点もあるのかも知れません。ここまで書いて、自分の独学を思い返した時、ふと一つの疑問が沸き上がってきました。独学者たちの学びを振り返りはどのように行われていたのか、どのようないみをもっていたのかということです。自分にとって学びの振り返りとは、大きく分けて二つの意味合いがあります。一つ目は、学習の定着のための定期的なメンテナンス。これは世間的にも学習局セなどの話で語られることが多いなと思います。二つ目は、自分の学びがこれまでどのような歩みをしてきたのか振り返り、「何のために始めた学びだったか」、「その学びは当初のニーズに適っていてるか」、という検証から次の学びの旅路の方向性を策定する時間という役割です。このプロセスが、学びを癒し、次に深めたいものを見つけための泳ぎたい広がりの海の方角を教えてくれるようなイメージがあります。ふと内容を振り返り味わっただけで、思った以上の文量になってしまいました。今日得たことは自分の体感とともにひとつずつ味わっていき、今後も自分の目指したい世界観のため、好奇心の赴くままの独学を続けていきます。(ゲスト)

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「名言との対話」10月13日。辰野金吾「俺は頭がよくない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家、工学博士。

佐賀県唐津生まれ。工学寮(現・東大工学部)の試験で官費入寮生に漏れ、二度目で受かった。31人中の最下位だった。辰野は後に造家学を首席で卒業することでわかるよに刻苦勉励の人であった。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太長野宇平治、矢橋賢吉、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞、岡田時太郎らの人材を輩出した。帝国大学総長渡辺洪基 の意向を受け、工手学校(現・工学院大学) の創立(1887年)を推進し、運営にも尽力した。大隈重信の要請を受け、早稲田大学建築学科創設(1912年)にあたり創設顧問に就任し尽力した。

東大仏文科で小林秀雄三好達治らを育てたフランス文学者の辰野隆は息子である。金吾は相撲好きで長男の隆を相撲部屋に入門させたこともある。その縁だろうか後に旧両国国技館を設計したのも辰野だった。晩年に隆から、本人がつくった多くの建築物の中で気に入った建物を聞かれて、「一つもない。俺は一生懸命やったがダメだったなあ」と語ったという。辰野金吾の志がいかに高かったかがわかる言葉だ。ちなみに長女・須磨子はビタミンの発見者・鈴木梅太郎夫人である。

辰野金吾の代表作として挙がるのが、1914年に竣工した中央停車場、現在の東京駅である。関東大震災でもびくともしなかったほど堅牢で、震災当時は堂々と建つその姿に、多くの人が励まされた。辰野の建築は設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれたこともこのエピソードで納得できた。

日本銀行本店、京都支店、小樽支店、大阪支店を始め、第一銀行、森岡銀行、朝鮮銀行、百三十八銀行、山口銀行、加島銀行など金融機関の建物っも多い。いずれもルネサンス系に辰野独特の手法を加えた作品が多く、「辰野式」と呼ばれている。赤レンガに白色のストライプが入り、賑やかなスカイラインが特徴だ。

現在でも台湾総統府として使用されている旧台湾総督府庁舎は辰野が監修した作品の一つである。私も台湾でその威容をみたことがある。
18世紀から19世紀かけて美術家や建築家をはじめ多くの人たちがヨーロッパ各地を数か月から数年をかけて訪ね見聞を広める旅をした。グランド・ツアーである。辰野も2年間のイギリス滞在を終えて、1年間のフランス・イタリアへのグランド・ツアーを試みている。旅をすることによって教養を積むという考え方はこのグランド・ツアーに由来している。

辰野の師匠は、鹿鳴館など名建築を残した工部大学校のコンドルとイギリスへの官費留学中に師事したバージェスだった。コンドルの後任として工部大学校教授となった辰野は日本の建築学に次の3つのオリジナルな視点を持ち込んでいる。美術建築の概念、日本建築学の研究、耐震建築学の創始である。つまり日本独自の建築学は辰野がつくったといえる。

現在の日本建築学会を立ち上げ会長となった。この学会は大学関係者だけでなく、技術者や施行業者も加えており、設計者、技術者、施行者の三位一体の建築界が生まれている。また建築は民間の事務所で勝負すべきであるという信念で東京と大阪に建築事務所を構えて200棟を超える膨大な辰野式建築で、美術と建築の一体となった世界をを生んでいった。1919年に国会議事堂の設計競技で審査員を務めるが、その年に大流行したスペインかぜに罹患し死去している。出身の佐賀県には旧唐津銀行本店 「辰野金吾記念館」がある。

辰野は努力と戦いと挫折の連続の中で、階段を一つづつ登っていった人生だった。最初は平凡だが、じわじわと追い越していく。気がつくと、いつの間にかトップになっているというタイプだった。「俺は頭がよくない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」と語っている。この自覚とそれを克服する努力が辰夫金吾という人格を形づくった。最近言われなくなった「克己心」という言葉を久しぶりに思い出した。近年、改装なった東京駅を見るたびに、辰野金吾に想いを馳せよう。