「ゴッホ展ー響き合う魂」ーークレラー=ミュラー美術館という永遠のコレクションをつくった女性コレクターの生涯。

東京都美術館の「ゴッホ展ー響き合う魂 ヘレーネとフィンセント」。

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ゴッホの作品を若い頃から順番にみれるという幸運に恵まれた。やはり晩年の絵がいい。

フィンセント・ファン・ゴッホは戦前は絵は一枚も売れなかった。そのゴッホが、偉大な芸術家と言われるようになったのは、4歳年下の画商の弟・テオの存在が大きいが、もう一人いた。ゴッホの死後、無名の頃からゴッホの絵に魅せられてた女性の蒐集家がいた。イレーヌ・クレラー=ミュラー(1869-1939)である。この女性は遂にはクレラー=ミュラー美術館をつくるまでになり、そのおかげでゴッホという存在が永遠になったのだ。この美術館は、若い頃から晩年にいたるまでのゴッホの作品をそろえている。その規模は世界一である。

ヘレーネは母親業に専念することでは満足できなかった。美術教師のブレイマーから学ぶ中でゴッホを発見し、蒐集を始める。

42歳ので危険な手術に際し、成功し生き延びたなら美術館の建設に生涯を捧げようと決意する。成功した実業家の夫の財産をつぎ込んでいく。

自分のためではなく、将来世代のために蒐集するようになる。写実から抽象へといたる絵画の歴史と美術がもたらす精神的な慰めを体験してもらうという目標を持った。その後、凄まじい速度で作品が集まっていく。年間数百点集め、とくにゴッホの作品の市場価値を高めることになった。

夫の会社が危機に見舞われたとき、夫妻は財団を設立する。ゴッホの油絵から素描に至るまで揃っていく。1929年の世界恐慌で会社が立ち行かなくなったとき、ヘレーネはオランダ国家に作品を寄付する。1938年、クレーラー=ミュラー美術館が開館し、ヘレーネは初代館長に就任する。美術館付きの家、ミュージアム・ハウスをハーグ近郊に建てることを考えていたが、その夢は結果的に国立の美術館として結実する。

その翌年、1939年にヘレーネは70歳で永眠する。その2年後、夫のアントンも79歳で死去しヘレーネの隣に埋葬される。

商人の妻から、自立した女性に、そして男性優位の美術界を揺るがす先見の明をもつ名コレクターとして歴史に名を残したのである。

 

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「名言との対話」10月12日。三浦雄一郎「 老いは怖くない。目標を失うのが怖いのだ。 あなたのエベレストを探しましょう」

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、日本のスキーヤー、登山家、獣医師。本日で89歳。

旧制青森中学校在学時に岩木山で開かれたスキー大会で優勝し初タイトルを獲得する。青森県弘前高等学校在学時に、全日本スキー選手権大会の滑降競技で入賞、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人優勝する。

北海道大学獣医学部を卒業。母校の北大獣医学部に助手になる。1960年代始め頃からスキー学校を開設しし、1962年、アメリカ合衆国でスタートしたばかりの世界プロスキー選手権に参加。1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172.084キロの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ、その記録映画 「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST]」はアカデミー賞を受賞した。

1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。しかし目標を失う。65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を果たすという目標を立てる。

2003年次男(豪太)とともにエベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヶ月)樹立。2008年、75歳2度目、2013年80歳にて3度目のエベレスト登頂世界最高年齢登頂記録更新を果たす。

アドベンチャースキーヤーとしてだけでなく、行動する知性派また教育者として国際的に活躍中。 記録映画、写真集、著書多数。またテレビでのCM出演も多い。アメリカン・エキスプレス。北の誉(北海道ローカルCM)。大和実業 エスカイヤクラブ。サントリー ローヤル(1990年)。2008年からのサントリー セサミンは今でも流れていてよく見かける。

現在、クラーク記念国際高等学校校長、NPOグローバル・スポーツ・アライアンス理事長、全国森林レクリエーション協会会長などを務めるなど精力的だ。

・老いは怖くない。目標を失うのが、怖い!何のために長生きしたいのか。健康の先に
何を見たいのか。その目標がはっきりしないとただの怠け者になってしまう。

・エベレストに登るという夢を持った途端人生が変わった。そして、夢を持てば
実現できることを改めて知った。

・老いぼれるのは結局、自分で諦めているんですよ。年を取ると、できない理由ばかりを一生懸命考え始めるんです。

・僕は限界に挑戦することで「人類のフロントランナーでありたい」と思い続けてきました。

本田宗一郎さん、佐治敬三さん、盛田昭夫さん、私が会った一流の企業家は、やっぱりみなさん前向きで、上機嫌な人たちだった。

53歳で世界七大陸最高峰のスキー滑降という目標を達成した後、三浦は喪失感を味い、生活が乱れた。そして65歳で「70歳でエベレスト登頂」という大いなる目標を持つに至った。それは父親の影響だった。

父のリハビリの様子を見ていて「人間いくつになっても夢をあきらめなければ成し遂げられるんだ」と実感し、「自分も人生このまま終わってなるものか」と再び情熱が沸き起こる。父親は、白寿でモンブランでのスキー滑走をやってのけた人だ。98歳から99歳の2年間で本も3冊書いている。その姿を間近に見ていたら、自分もまだまだと思わずにはいられなくなる。エベレスト登頂を前にして体力が、30代後半の水準まで戻ったのは、父親に負けてはいられないという思いが、それだけ強かったからだ。101歳で亡くなった三父・三浦敬三は死の直前まで現役のスキーインストラクターとして活躍している。

三浦雄一郎「65歳から始める健康法」(致知出版社)を読んだ。70歳、75歳、そして80歳でエベレスト登頂を達成した。85歳での目標は、チョ・オユーというヒマラヤで6番目に高い8201mの高峰に登り、その山頂からスキーで滑ることだと述べている。三浦によれば肥満の原因の大本は大きな目標がないことだとそうだ。大きな目標を持つと有酸素運動と規則正しい生活という現状維持の守りの健康法から攻めの健康法に転ずる必要がでてくるという。そのためのトレーニングもすごい。両足首に1キロのアンクルウェイトをつけて10キロの重さのザックを背負って歩くトレーニング。一日二度、全力で壁を押す。階段を上り下りする。特に下りは歩く。舌出し運動を一日100回。噛む力。主食は少し残す。サプリメントセサミンか?)。30から50回ほど、よく噛む。「人生いつも今からだ」という生き方。新しいジャンルに挑戦すること。

「今の私にとっては、自己ベストの更新を目指すというのがそのまま人類の限界突破につながります」。自己ベストが世界、いや人類の記録になるところまできた。「ザ・ファースト・イズ・フォー・エバー」なのだ。

本日で89歳になった三浦雄一郎の「老いは怖くない。目標を失うのが怖いのだ。あなたのエベレストを探しましょう」というメッセージには励まされる。この先も三浦雄一郎の動きに注目しよう。