ヨガ。蕎麦と酒。深呼吸。新人物風土記。

朝はヨガを1時間。

昼食はうまい蕎麦を食べながらビールと日本酒を飲んだので、自宅で昼寝ということになりました。

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夜はZOOMで深呼吸学部を受講。別のパソコンで「新人物風土記」のアイデアを探るという内職をしながら参加。

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「新人物風土記」「新・人国記」のアイデア大分県ではどうなるか。

磯崎新(大分)。富永一朗(佐伯)。立川澄人(大分)。松下竜一(中津)。横松宗(中津)。稲尾和久(別府)。福田平八郎(大分)。野上豊一郎(臼杵)。梅津美治郎(中津)。滝廉太郎(竹田)。平松守彦高山辰雄。尾畠春夫(日出)。ペトロ岐部(国東)。福沢諭吉(中津)。利光松男(中津)。重光葵(杵築)。野依秀市(中津)。広瀬武夫(竹田)。賀来龍三郎(中津)。前野良沢(中津)。久留島武彦(玖珠)。村山富市。柴田紘一郎。広瀬淡窓(日田)。野上弥生子臼杵)。朝倉文夫。宇治山哲平(日田)。黒田如水(中津)。有光教一(中津)、双葉山(宇佐)、、、。

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「名言との対話」10月17日。大山のぶよ「ぼく、ドラえもんでした。」

大山 のぶ代(おおやま のぶよ、1933年10月16日 - )は、日本の女優、声優、歌手、脚本家、エッセイスト、タレント。

東京都渋谷区出身。子ども時代に変な声だといじめられた時に「弱いと思ったら、そこをどんどん使いなさい」と励ましてくれた母が早く亡くなったこともあり、「手に職を」つけようと、都立三田高校在学中に劇団俳優座養成所に入学。夫はタレントで『おかあさんといっしょ』初代体操のお兄さんの砂川啓介

1956年「この瞳」(NHK)でデビュー。「ブーフーウー」「ハリスの旋風」「江戸を斬る」などに出演する。代表作の「ドラえもん」の声「可愛い、人のよいロボット」に遭遇し、「ぜひやらせてください」と申し出る。代表作の「ドラえもん」の声は1979年4月から2005年3月まで、45歳から26年間担当した。

物語の主人公たちは東京都練馬区に住んでいる。このロボットは「どこでもドア」を持っていて、「古今東西」、「過去未来」、「宇宙、海中、地中」に連れていってくれる。2112年9月3日生まれのドラえもんは身長129.3cm子守り用のネコ型ロボットで、人間の手伝いをする。

原作の藤子・F・不二雄は大山のぶよに「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ」と声優冥利に尽きる言葉をいってくれた。

1969年から1996年まで小学館の雑誌で連載され、単行本45巻に1,345話が収録されている。「ドラえもんがポケットから出す多種多様なひみつ道具(現代の技術では実現不可能な機能を持つ)で、のび太(以外の場合もある)の身にふりかかった災難を一時的に解決するが、道具を不適切に使い続けた結果、しっぺ返しを受ける」が基本的なストーリーだ。

全国の子どもたちはドラえもんのとりこになってしまう。いつの頃からか、大山のぶよは他の声の出演は断るようになり、ドラえもん一本の声優になった。

原作の漫画が出版された国および地域は、中国、香港、台湾、韓国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイ、ラオスカンボジアインドネシアキプロス、イタリア、スペイン、フランス、ロシアである。

アニメーションはこれまで、北米(アメリカ合衆国、カナダ)、中南米(ブラジル、コロンビア、チリ、アルゼンチン、エクアドルボリビア、ペルー、パラグアイベネズエラパナマ、メキシコ、プエルトリコキューバドミニカ共和国ニカラグアコスタリカホンジュラスエルサルバドル)、ヨーロッパ(スペイン、イタリア、フランス、ポルトガルポーランドベラルーシ、ロシア、イギリス)、中東(サウジアラビアカタールUAEオマーンエルサレムイスラエル、トルコ)、アフリカ(アルジェリアリビアチュニジア)、東アジア(中国、香港、マカオ、台湾、韓国)、東南アジア(インドネシア、マレーシア、タイ王国ベトナム、フィリピン、シンガポールカンボジア)、南アジア(インド、バングラデシュブータン、ネパール、パキスタン)、オセアニア(オーストラリア)でも放送された。全世界といってもよい。

私も子育ての間は、一緒に「ドラえもん」をよくみた。小学生になった孫も、一心不乱に漫画を読んでいる。ドラえもんは永遠だ。

作家の瀬名秀明は「私は物語の基礎を『ドラえもん』と『コロコロコミック』から学んだ」。漫画評論家米澤嘉博は、「ひみつ道具」を主軸にして作られる『ドラえもん』の作劇を「マンガにおける一つの発明」と評価している。

ガンの為、降板のニュースが流れたとき、友人の黒柳徹子から「あなた二十六年なんてなによ、私は『徹子の部屋』をもうすぐ三十年よ」と2004年に電話がある。大山はその後、認知症になって夫が面倒を見ているとの報道に接している。

やめてから2カ月たってドラえもんとの楽しい日々を書こうと机に向かい、1年後に書き上げる。それが『ぼく、ドラえもんでした』(小学館文庫)だ。それを読んだ。

ソフトバンク孫正義は、今までのロボットは人間のプログラミングのとおり動くガラボであり、「ロボットの時代とAIの時代をかけ合わせる、『スマボ』 の時代がやって来る」とし、「もし日本で1億台の 『スマボ』 が導入されれば、労働人口にしておよそ10億人相当の国に生まれ変わる」と夢を語っている。「ドラえもん」もつくって欲しいというのは子どもだけでなく、今や大人になった日本人たちの共通の願いだろう。

弱いところを勇気をもって打ち出すと、それが個性となって、声優となり、空前絶後のの大ヒットを生んだのだ。その声は日本中の子どもたちに届いた。それはドラえもんが生まれた22世紀まで生きる可能性のある今日の子どもたちの生き方にも影響を与えるはずだ。大山のぶよが関与した「ドラえもん」の世界という発明は、世紀の大プロジェクトになったようである。