松涛美術館の「白井晟一入門」展で購入したエッセイ集『無窓』を読了。縄文、日本文化、独創、俗と用、単純と簡素。

10月24日に松涛美術館の「白井晟一入門」展をみてきた。

白井は建築家として活躍したが、実は建築を学んだことがない「独学」の人だったのには驚いた。この素敵な美術館も白井の設計だった。静岡の芹沢銈介館、群馬の土屋文明文学館も白井の設計だった。

白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。村野藤吾吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる。一方で、その独特な作風や言説から「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる

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そこで購入した白井の『無窓』(晶文社)を読了した。

建築界の異才のエッセイ集。内容が高度であり、理解したかどうかには自信がないが、いくつかのキーワードで白井の思考を追うことにした。

  • 「縄文」:日本文化は縄文と弥生の葛藤、宿命的な反と合による。空海時宗雪舟、利休に連なる縄文的な脈拍が存在する。縄文文化のポテンシャルの継承が重要だ。
  • 「日本文化」。日本文化は受容と過誤と浄化の歴史だった。咎は「伝統の自覚」の喪失にある。丹下健三川添登との伝統論争。
  • 「独創」:最高の借り物ではなく、最低の独創を。
  • 「俗と用」:一つの生命が他の生命に奉仕することが用。豆腐。めし。生き残る暮らしが「用」。骨董は俗、欲望。白井は初心を忘れないために、欲望の表現であり、俗である「書」で鍛錬をした。
  • 「単純と簡素」:伊勢神宮は日本的創造精神の原理。簡明な形式。日本的な形態。永久に新鮮。「清らかさ」「美しさ」の究極。日本建築の最高基準・理想を「単純」において具現。鎌倉後期の武家建築は「空」「無」へ向かう「単純」を蘇らせた。室町は「単純」に加え、「簡素」という形式を創造し、桃山から徳川初期に完成。

白井晟一は、哲学の徒であり、正式に建築を学んだことはない。巷の家や注文のあった建物をつくりながら建築を考えた独学の人である。若い時代の義兄の近藤浩一路と哲学者の戸坂潤との出会いが人生行路に大きな影響を与えている。パリ時代には林芙美子との恋愛もあった。

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「名言との対話」11月29日。勝新太郎「冷蔵庫に入れておいた芝居をするな」

勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年(昭和6年)11月29日 - 1997年(平成9年)6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。享年65。

東京都出身。10代のころは長唄と三味線の師匠だった。長唄の名取の二代目・杵屋勝丸として深川の芸者に稽古をつける。1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。 

23歳、大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビューするが不振だった。1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、評価を一新させる。時代劇スター市川雷蔵とともに、大映で二枚看板として活躍した。

1962年、人間国宝の父と兄を持ち、歌舞伎界の名門・成駒屋のお嬢様の中村珠緒と結婚。『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得。一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、代表作となっている。NHKでは、大河ドラマ独眼竜政宗』で老獪(かい)な豊臣秀吉役を熱演している。

1967年に勝プロダクションを設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作映画製作に乗り出す。1974年から1979年にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作する。1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されるが、監督の黒澤明と衝突し降板する事件もあった。 1981年には12億円の負債を残し倒産。

数々の不祥事・事件を起こしながらも人々に愛されたキャラクターを持つ俳優だった。不祥事の記者会見や雑誌でもいつも話題になっており、本業も含めて世間を騒がす人だった。「勝新」の愛称で親しまれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄が危機を救った。「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪遊し続け、死後に残った借金も妻の玉緒が完済のために奔走する。「20年くらい、毎月500万円ずつ」の返済だったと玉緒は述べている。

中村玉緒勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒自身は直接は聞いていないそうだ。

この芝居の天才は、常に真剣勝負だった。その場その場で勝負をしていた。共演した名優の誰かだったか、その勝負の気迫に戦慄したとの回顧を聞いたことがある。「冷蔵庫に入れておいた芝居をするな」という言葉のとおり、考え抜いて準備した演技ではなく、現場の緊張感の中で最高の演技をしようとしていた名優だった。