国立の社会福祉法人「滝乃川学園」を訪問。日本初の知的障害児施設。創立者夫妻の「石井亮一・筆子記念館」を訪問したが、コロナ禍で中には入れなかった。残念。第3代学園長は、渋沢栄一。ここにも渋沢栄一がいた。
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長島要一『明治の国際人・石井筆子』(新評論)を購入し、帰宅後に浴読で読了。
石井筆子は、1861年、長崎大村生まれ。明治初期に岩倉使節団に同行しアメリカ留学した山川捨松や津田梅子はよく知られているが、ヨーロッパ留学組もいたのである。筆子は2年間の留学を終えて、華族学校のフランス語講師となる。
大村藩の家老の家柄だった小鹿島果と結婚する。子どもは3人とも身体障碍児だった。筆子は31歳で夫に先立たれる。2年後の1893年から1902年まで静修女学校の校長となる。立教女学校の教頭をつとめていて、1891年に濃尾地震で生まれた孤児を救済する目的で聖三一孤女学院(当初は荻野吟子宅に開設)を立ち上げていた石井亮一を迎え入れる。この建物は1902年に津田梅子が購入し、女子英学塾(後の津田塾大学)の分校になる。
898年にアメリカで開催された第4回国際婦人集会に津田梅子とともに日本代表として出席。このとき、知的障碍児教育を学ぶために滞米中の石井と出会っている。
筆子は、この本で様々の人からその姿を記述されている。美貌。大柄。ダンスがうまい。凛とした態度。知的。機転がきく。英語・フランス語・オランダ語が堪能。、、。
1903年、42歳の筆子は6歳年下の石井亮一と再婚。石井は日本の「知的障碍者教育・福祉の父」と呼ばれている。聖三一孤女学院は1897年に「滝乃川学園」と名称を変え、知的障碍児を預かる機関として再出発する。筆子は看護人を育てる分野の責任者となっている。
1928年、学園は谷保村へ移転。1937年、亮一は71歳で死去。筆子は学園長に就任。1944年、84歳で石井筆子死去。第3代学園長は渋沢栄一。
「女性は男性のために存在しているのではなく、また男性も女性のために存在しているのではない。もしも女性が男性のために存在しているになら、男性もまた女性のために存在していることになる」
石井筆子は「無名の人」と呼ばれるが、もっと知られていい人だ。再度、訪れたい。
谷保天満宮。ハケなので、入り口から本殿に向かって下がっていくという珍しい神社。
903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まる東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社、湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。
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国立駅の近く、石原慎太郎が一橋大学時代に通ったという喫茶店「ロージナ茶房」。13年前に一度来たことがある。建物は古いが、店員は若くテキパキしている。
道路からの入り口は、「からあげ。中津家」だったので驚いた。からあげを買って夕食。
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1万3千歩。
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今日のヒント
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「名言との対話」2月17日。浅賀ふさ「個を対象とするケースワーカーが出会う問題の中には、多くの社会的レベルにおいて解決しなければならない問題がある。対象者の問題を顕微鏡を通して見るごとく身近に知ることができる立場にある」
浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986年3月3日)は、の医療社会事業家。
愛知県半田市出身。日本女子大学英文科を卒業。1919年に渡米。ソーシャルワーク活動に眼を開かれる。シモンズ大学社会事業大学院、ハーバード大学大学院で幼児教育を学ぶ。1929年に帰国。聖ルカ病院(のち聖路加国際病院)でメディカル・ソーシャルワークを始め、社会事業部や作業治療部を創設する。
1938年、衆議院議員の浅賀五兵衛と結婚。1945年、夫が死去。戦後、厚生省児童局の渉外専門家など社会事業教育に携わり、医療福祉確立に努力した。1953年より中部社会事業短期大学(日本福祉大学)教授として80歳まで教壇に立った。日本医療社会協会の初代会長。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典についてなど)
浅賀ふさが日本最初になったというメディカル・ソー シャルワ ーカ ー(MSW)とは何だろうか。第二次世界大戦後、結核への対応のために病院や国立療養所などにMSW が配置された。その後、入院援助、医療費問題の解決などの相談支援業務が必要かつ求められ、社会福祉の観点から患者と家族のために活動するMSWが必要になっていく。 具体的には、以下の業務を担当する。1.療養中の心理的・社会的問題の解決、調整援助。2.退院援助。3.社会復帰援助。4.受診・受療援助。5.経済的問題の解決、調整援助。6.地域活動。(厚労省 『医療ソーシャルワーカー業務指針』より)
『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』にある浅賀ふさの発言を抜き出してみよう。