西村京太郎死去ーー月1冊のペースを50年。しかし「鉄道しか書かせてもらえなくなっちゃって」と語った。

f:id:k-hisatune:20220307220157j:imagef:id:k-hisatune:20220307220244j:image

 

西村京太郎が亡くなった。昨年9月の誕生日に西村のことを書いた。

「名言との対話」9月6日。西村京太郎「人間、どこかで「なんとかなるサ」って開き直ることがないとね。リスクなんて考えてたら、結局は何もできませんよ」。

西村 京太郎(にしむら きょうたろう、本名:矢島 喜八郎(やじま きはちろう)、1930年9月6日 - )は、日本小説家推理作家

トラベルミステリーの第一人者で、十津川警部の生みの親として知られている。この分野は、鉄道ミステリー、旅情ミステリーなどいくつかのいい方がある。

東京生まれ。東京陸軍幼年学校に入学したが、終戦のため退学した最後の幼年学校生だ。復帰した東京都立産業技術高等専門学校卒業後、臨時人事委員会に就職するが、11年後の29歳で退職して私立探偵、警備員などを経て作家生活を始める。松本清張「点と線」を読んで、自分も書けるのではないかと作家になろうとするが、2年間は全く売れない。ベストセラー作家になったのは40代だ。

1999年夏に受けたインタビューでは「30年の作家生活で、これまで殺した人間はざっと1000人」と語っていた。同業の山村美紗の娘で女優の山村紅葉が「私の理想であり、お父さんみたいな人。ママがよく「あの人は小説は天才だけどあとは子供」と言っていた」と明かしている。

「家にいるときは毎日です。1日書かないでいると、元の20枚のペースに戻るのが大変なんです。1日1枚で終わると、翌日が大変」
「家にいるときは毎日です。1日書かないでいると、元の20枚のペースに戻るのが大変なんです。1日1枚で終わると

1996年、療養を機に神奈川県湯河原町に転居している。1999年に脳梗塞で左手が不自由となったが、執筆ペースは落ちない。結婚は2000年で、西村が古稀の70歳、相手は還暦の60歳だった。2001年に「西村京太郎記念館」をオープンする。隣は現在の自宅であり「矢島」という本名の表札が掲げられている。表は筆名、裏は本名という司馬遼太郎記念館と同じやり方だ。

私は2009年9月に西村京太郎記念館を訪問した。この時点で34歳から320冊のトラベルミステリーを書いていた。締切には遅れたことはない作家だ。全て手書きで、月に平均で400枚ほど執筆している。生原稿も展示されていた。鉄道のジオラマがあり、壁には著書がメンチン(表紙を見せながら並べる)となっており壮観だ。日曜日は13時から15時の間に、隣の自宅から現れ、サイン会を開くと係員から教えてもらった。

2017年に87歳のとき「フジテレビ系「超アウト×デラックス」に出演した。マツコから年収を聞かれると、「7億円です」と即答。これまでに590冊ある著書の売り上げを聞かれると、「400億円。でも、税金でかなり持っていかれましたよ」と本当のことを語る。

2019年4月に「東洋経済」のインタビュー記事を読んでみた。年間12冊の驚くべきペースで量産している。取材は2泊3日に決めている。でないと書く時間が無くなるからだ。写真は撮るがメモはしない。深夜0時から朝の5時―6時まで執筆、朝刊を読んで寝て12時に起きる。ノルマは1日20枚。年間4000枚。「一日書かないと、元の20枚のペースに戻るのが大変なんです」は習慣の本質を言い当てていると思う。執筆時はいつも「腹ばいで書いています。疲れたらそのまま寝られますし、楽です」。

鉄道ミステリーは、気をつけないと舞台の駅がなくなっていることもあるそうで、仙山線の駅がなくなっていたことがあり、クレームがあった。ミステリーファンからはないが、鉄道ファンからはしょっちゅうクレームがあるそうだ。気質の違いだろう。

旅情ミステリーの内田康夫の浅田光彦(ルポライター・素人探偵)は33歳、西村京太郎の十津川警部は40歳。どちらも歳を取らないのは一緒である。私は2017年に内田康夫の軽井沢の浅田光彦記念館を訪問したことがある。46歳から36年間で浅見光彦シリーズ116冊、著作合計163冊という怒涛の仕事量であるが、惜しくも2018年に没している。内田康夫と比べると、西村京太郎の多作のもの凄さがわかる。この人の作品は読んだことはないが、テレビでは西村原作のドラマはよく見ている。

「リスクなんて考えてたら、結局は何もできませんよ」か、、、。確かに人生はチャンスとリスクが表と裏でくっついているから面白いのだ。チャンスがあったら思い切って跳ぶことだ。失敗したら、それはそれで何とかなる。そういう気概でいかなければ、つまらない。「人生は愛と友情と裏切りで成り立っている」との西村の色紙をみたことがある。やはり辛酸も舐めたのだろうと想像する。

西村京太郎は2021年の本日で91歳となった。2019年7月で622冊を数える著書は、2年経ち650冊ほどになっただろうか。この人はいったいどこまで積み上げるだろうか。

ーーーーーーーーーー

本日の東京新聞日経新聞の記事から。

西村京太郎(鉄道ミステリー作家)が3月3日死去。享年91。

西村 京太郎(にしむら きょうたろう、1930年9月6日 - 2022年3月3日

 1963年「歪んだ朝」(オール読物推理小説新人賞)。1965年「天使の傷痕」(江戸川乱歩賞)。社会派作品はずっと売れなかった。1978年「寝台特急殺人事件」がベストセラー。十津川警部の長寿シリーズは映画も多い。2019年、「十津川警部」シリーズで吉川英治文庫賞。

東京スカイツリーの全高(634メートル)を超える冊数(635冊)までは書きたい。出来るかどうかは分からないが」。2019年3月現在で619冊。1964年から2017年まで53年。平均すると年12冊だから、毎月1冊を刊行し続けた計算になる。累計2億冊以上。

戦争について書きたかったが、「鉄道しか書かせてもらえなくなっちゃって」と語っている。「武器は手に持っていたら、使いたくなる」「それが恐い」。西村京太郎も書きたいものは書けなかった。こういう人は案外多い。

竹内均も膨大な出版点数だが、自分が出したいものは自費出版だった。専門の地球物理学のみならず、一般科学から「修身」など人の生き方についてまで生涯で450冊の著書を刊行している。量産の秘密は書くことの5倍のスピードになる口述筆記だった。通勤で新書1冊を読み、読書メモもテープレコーダを活用、内容を要約して保存する。1時間で新書1冊は10枚のまとめになって蓄積をしていく。執筆のノルマは毎月300枚以上を自身に課していた。あるテーマに関して3-4枚の断片を積み上げていく。100集まれば著作となる。売れる売れないに関係なく、自分の勉強のために原稿の形でストックしていくのである。「仕事が楽しみならば人生は楽園である。仕事でも勉強でも怠け者で大成した人間はいない。成功者はみんな働き者である。」「継続していれば、なんでもすごいことになる。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日の収穫

キプチョゲ(ケニア)。東京マラソン優勝者。2022年3月6日。世界記録保持者(2時間1分39秒)。「この世には二つの人種しかいない。一つは問題を起こす人たち。もう一つは問題を解決する人たち。解決する人たちになろう」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

耳読「源氏物語」(与謝野晶子訳)の70時間に挑戦を始めた。1万歩。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月8日。小宮豊隆「先生によって纏められてゐた木曜会の世界は、五色の雲に包まれた、極楽浄土の世界だったやうま気がする」

小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年明治17年)3月7日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家

福岡県京都郡みやこ町に生まれる。旧制豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 に進む。

1905年、東京帝国大学文学部独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門人となる。1920年海軍大学校嘱託教授、1922年法政大学教授、23-24年ヨーロッパ遊学。1925年東北帝国大学法文学部教授。1946年同定年退官。東京音楽学校(現在の東京藝術大学)校長や国語審議会委員などを歴任。49年退職。1950年学習院女子短期大学の初代学長に就任。1957年まで務めた。1951年学士院会員。

小宮豊隆『知られざる漱石』を読んだ。

漱石が主宰した午後3時からの「木曜会」の歴史。弟子に対する深い愛。根が強い。手紙魔。漱石は酒を少し飲むと真赤になる。大病をしてから人生観が変わり、東洋風の文人生活になった。「願う所は閑適にあり。厭ふものは塵事なり」(漱石)。則天去私の世界。大きく見えた。顔が大きく、道具が大きかった・子規「味覚や聴覚は、あまり発達してゐなかった」、、、、。

木曜会は、あまりに来客が多くて悲鳴をあげた漱石が、毎週木曜日を面会日と定め、午後3時から相手をした会である。弟子たちの回想によく登場するし、その会合の様子も津田清風の「漱石山房と其弟子達」という絵になっているなどよく知られている。

小宮豊隆鈴木三重吉森田草平 安倍能成(以上四天王)・阿部次郎岩波茂雄内田百閒寺田寅彦野上豊一郎松根東洋城・内田百閒・中勘助江口渙和辻哲郎滝田樗陰芥川龍之介久米正雄松岡譲・高浜虚子、、、、。

芥川龍之介は『あんなに先生に議論を吹っかけて良いものでしょうか』と小宮に聞くと、小宮は『先生は僕達の喰ってかかるのを一手に引受け、はじめは軽くあしらっておき、最後に猪が兎を蹴散らすように、僕達をやっつけるのが得意なんだよ。あれは享楽しているんだから、君達もどんどんやり給え』と答えている。

漱石の命日が12月9日だったことから、彼らは毎月九日に集まった。九日会となり、1917年から1937年まで20年間続いている。彼らは在りし日の漱石と面会し、それぞれ漱石との思い出をずっと語り続けていたのだろう。それはまさに小宮豊隆のいうごとく、「極楽浄土の世界」の余韻だったのだろう。極楽浄土とは、阿弥陀仏のいる、苦しみがなく、楽しみだけがあるという世界だ。漱石阿弥陀仏であり、その説法を諸仏が楽しく嬉しい思いで聴いているという情景が目に浮ぶ。それは津田清風の「漱石山房と其弟子達」という絵、そのものではないか。

漱石北極星だった。その不動の星からの光に照らされて、木曜会のメンバーたちはそれぞれの分野ですぐれた仕事をして、彼らなりの光彩を放った。漱石という大きな存在が、小宮豊隆らの名を高めた。一方で、キラ星のような弟子たちの活躍と彼らが讃える漱石像によって、歴史の中の夏目漱石がさらに大きくなっていったのである。