佐高信『企業と経済を読み解く小説50』(岩波新書)ーー「経済や企業を描かずして、社会の現実がつかめるのか」

佐高信は、純文学は「他人本位の屈折」を経たことのない作家たちのギルド文壇文学だったのであるとし、経済や企業を描かずして、社会の現実がつかめるのか、と「はじめに」で喝破している。

30代半ばに私が労務担当から広報部へ異動した時、「広報」とは何をするところなのか、よくわからなかった。学者の書いた広報理論を読んでも腑に落ちなかったのだが、高杉良『広報室沈黙す』を読んで、広報マンの仕事の意味がわかったという経験がある。損保企業の初代広報課長になった中間管理職の闘いを描いた小説だった。この本には「企業のコンプライアンスとは、企業広報とは、広報担当の仕事とはなにか。様々な示唆に富んだ企業小説の傑作!」との説明がある。この本はまだ読み続けられているようだ。私はこれ以来、高杉良城山三郎の小説のファンになった。

「企業と経済」を描く小説には、社会と組織と個人をめぐるあらゆるテーマがひしめいている。社会人の大半は、日々そういった問題に直面しているのだから、自分に引き付けて考える材料になる。

佐高信『企業と経済を読み解く小説50』は、そのことを教えてくれる。さらに企業小説を書く作家の登場が期待される、いや、むしろ個人の内面を深く掘り下げる小説よりも、時代と社会、組織と個人を描こうとするこの分野こそ、むしろ小説の本道ではないかと思う。

この本の文中に出てくる小説家の言葉を拾ってみよう。

  • 「GEはアメリカの会社だから、竜巻や入りケーンは頭にあるけど、地震ことは詳しくない」「ましてや津波なんか、考えたこともない。向こうの原発は内陸部の大型河川沿いにあるからな」(黒木亮)
  • 「官吏は人間クズである」「人間が権力持ったときに示す自己保存、権力誇示の本能の表現、それが官僚意識というもんだ」(松永安佐エ門。小島直記
  • 「戦争は経済だからね」「軍人は数字を精神で膨らませる」(五味川純平
  • 「日本っていうヤツは、本当に化け物よ。脳みそにあたる部分は、幼稚なエリートとか官僚とか、政治家っていう名札をつけた選挙屋とかの腐った細胞でできてるの」(幸田真音
  • 「お前は正しすぎるから危険なんや」(真山仁
  • 「裏表のある人間は嫌だが、裏と表をはっきり言う奴とは付き合ってもいい」渋井真帆
  • 「総会屋なんて、ダニみたいなものだ。しかし、その悪を養い育てているのは、財界であり企業なんだ、それ自体が悪の花園なんだ」(三好徹)
  • 「トヨトミの終身雇用の対象はあくまで社員です。工場労働者の主力を担う期間工は蚊帳の外だ」(梶山三郎)
  • 「われわれがここを裸にしているあいだに、日本は緑になりますよ」(堀田前衛)
  • 「医者ってのは、若いうちから先生先生と奉られるから、成熟した人格形成ができにくい職業なんだ。考えれば気の毒な人種だな」(久坂部羊
  • 「自分で図書館を歩き、古本屋を歩かないような人間に、解析などできるわけがない」(広瀬隆
  • 「毒素のない小説などと云うのはまったく面白くない」(杉田望)
  • 「上から入ったものを、そのまま下に出すだけだったら腹下しと一緒じゃないか」(浅川純)
  • 「トップでなく、普通の人を描く小説は胸がキュンとなるようなところがある(高任和夫)

著者の佐高信の言葉も辛口の風刺が効いている。「新・原発文化人」「政治献金は掛け捨て保険」「使途不言明金」「生きたワイロ」「神様と世の中のズレ」「現代の傭い兵」「商社マンにしておくのが惜しいほどの作家の眼」「株式会社日本の社内報」「社長キラー」、、。

この本には私が働いたJALについての小説も出てくる。山崎豊子沈まぬ太陽』だ。この小説、あるいは映画化について反感を持つ現役や、OB、そして関心を持つ人たちの問いかけに対して、「労働組合の側からみると、ああいうふうに見えるでしょうね」と答えていた。立場が違うと見える景色も変わってくる。どちらも真実なのだ。

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「名言との対話」3月8日。宮城音弥「心とは何かーー少年時代の私を悩ましたこの疑問が、私に心理学を一生の仕事として選ばせた」

宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005年11月26日)は、日本の心理学者。

京都大学で哲学を学んだ後、パリ大学で心理学、精神医学を学ぶ。帰国後は昭和医学専門学校で医師免許を取得した。東京工業大学教授、日本大学教授。1950年代から1970年代にかけて、臨床重視の心理学書を多数発表し、心理学ブームをまき起こした。1970年代はマスコミでよく名前を聞いていた記憶がある。

宮城音弥『心とは何か』(岩波新書)を読んだ。

「まえがき」の冒頭には「心とは何かーー少年時代の私を悩ましたこの疑問が、私に心理学を一生の仕事として選ばせた」

「あとがき」には、「「心」とは何か。霊魂はあるか。「心」は意識か、「心」は行動か、「心」は脳の働きか、「心」はエネルギーかといったことを語った。さらに「心」は要素の集合か、全体的なものか、「心」は目的に向かって進行する動きか、「心」は測定できるか、「心」は了解できるかについて考え、「心」は自由か、「心」は自我かといったことを問題にした。私は、あるいは、もう一章を加えるべきだったかも知れない。---心は機械の一種か、あるいは心はコンピュターのごときものか、という点である。「あとがき」の最後は「本書によって心理学史をふくめた心理学の鳥瞰図を描くことを試みたユエンである」だ。

この本には、「心の研究者たち」のリストが載っていて、彼らの登場するページを参照できるようになっている。ジェームズ、フェヒナー、ヴント、ワトソン、パヴロフ、ジャネ、ウェルトハイマー、ケーラー、コフカ、レヴィン、フロイトユング、ゴルトン、ビネ、ヤスパースクレッチマー。そして人名索引と事項索引まで記載している。

「心とは何か」というような大テーマを、レベルを落とさず岩波新書でわかりやすく説明するという難題をこなす力は秀逸だ。心理学史とコンピュータサイエンスにまで目配りがきいている。

他には『日本人の性格』『夢』『精神分析入門』『超能力の世界』『天才』『娘を早く嫁がせる法』などの著書がある。

『天才』(岩波新書)を読んだ。天才と性格の関係を探求した書物だ。創造的知性の体現者である天才たちは、生活様式(文化)に急激な変化をもたらした人々である。偏執性的な執念を持つ目的追求型の天才の例を挙げながら「性格」という観点から鋭く分析をしている。その矛先は精神病にまで向かっていく。

マルクス。ルソー。コンプレックス。フロイトアドラーユングランボー。ヴォードレール。ポー。ベートーベン。バイロンゲーテ。」イヤー。コッホ。ダーウィンニュートン。バッハ、ベルヌイ。カフカ。アインシタイン。セザンヌモンテーニュ。ワグナー。ニーチェモーパッサンシューマンドストエフスキー夏目漱石

これらの天才には残酷な運命が待っている。なぜなら彼らは社会に不適応な人々だからだ。その典型が以下の人々だ。キリスト。コロンブスガリレイグーテンベルク。ジェンナー。ハン・フス。デカルトスピノザヴィクトル・ユゴーセルバンテスヴォルテールセネカアルキメデスキケロ、、、。投獄、亡命、自殺、追放、迫害、嘲笑、貧困など生涯を余儀なくされている。

様々な分析の結論は、「天才と狂人は紙一重」という常識的なものだった。「真の創造性は、社会的適応性と逆相関する」と宮城は主張している。この点が才能を社会に役立てる理想的な人物である「能才」との違いである。その上で、宮城は、民主社会の教育の目的は人間を社会に適応させることにあり、常識ある市民に育てることにあるとする。能才教育を主眼にすべきだとする。一方で、毒物でもある天才の副作用を覚悟した上で適量を用いるしかないという。そして社会を飛躍的に進歩させる天才を見出す見出す努力も放棄すべきではないと主張している。この本も「心」の研究家の力作である。

さて、宮城音弥は、清水幾太郎丸山真男と二十世紀研究所を設立したり、「封建的マルクス主義」という論文ではスターリン批判を行うなど、教育、宗教、文明論などでも活発な評論活動を行った。宮城は「臨床」を意識していたのではないだろうか。哲学、心理学、精神医学という学問分野の横歩きをしながら、人間心理が織りなす社会問題を「心理」の面から解き明かそうとしたのだろう。少年時代に心に浮かんだ「心とは何か?」という大きな問いに、挑み続けた生涯だった。