日経「私の履歴書」ー浮川夫妻の連載がいい。川柳を一句「愛子さま プロンプターなしで 会見だ」

日経新聞「文化欄」の「私の履歴書」を毎月楽しみにしている。今月は「一太郎」などで一世を風靡したジュストシステム創業者の浮川和宣さんだ。妻の初子さんとのコンビで勃興していくコンピュータ時代を疾走する物語がとてもいい。

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この連載では、夫の社長が常に妻の専務のことを書いているのが、大きな特色だ。そして、妻の初子さんは毎日その日の記事についてのブログでディテールを補足しているので、読者は記事の背景も知ることができる。こういうやり方も珍しい。

日経の看板である「私の履歴書」を書いた後、それを基礎に材料を加えて、自伝にする著名人が多いが、もしかしたら、この夫婦は、そういった未来をにらんで一緒に作業をしているのではないだろうか。また、現在の「MetaMoji」の認知度向上に役立てようという狙いもあるのだろう。もしそうなら実に戦略的だ。

この「履歴書」のキーワードは「知的生産性」である。日本人の知的生産性を向上させようとする志が根底にある。知的生産性に大いに貢献する「日本語ワープロ」という難しい課題に挑戦し、時代を切り拓いた夫婦の物語、そして現在進行中の姿をさらに楽しみたい。

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愛子さまが二十歳を迎え、初めての会見をした。頭のいい、そして優しい人柄だと感心。そこで一句「愛子さま プロンプター無しで 会見だ」。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月17日。横光利一新感覚派、新心理主義、行動主義、純粋小説論、反ヨーロッパ」

横光 利一(よこみつ りいち、1898年明治31年〉3月17日 - 1947年昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家俳人評論家である。

大分県宇佐市出身の父は「鉄道の神様」呂呼ばれた技術者で転勤が多かった。利一は中学4年のとき、国語教師に文才を認められた。それが契機で小説家を志望するようになった。

早稲田大学予科に入学。1920年菊池寛に紹介され、生涯にわたって師事する。大学は中退し、小説を書く。1923年に刊行した『日輪』『蠅』は構成のうまさと文章表現の新鮮さで衝撃を与えた。1924年川端康成らと一緒に『文芸時代』を創刊し、新感覚派運動を先導した。『上海』はその集大成である。

心理主義に転じて1930年に『機械』を刊行。1934年の『紋章』は行動主義の作品。1935年には『純粋小説論』で私小説に反対し、『家族会議』を書く。そしてヨーロッパ文化との対決をめざした『旅愁』に着手するが、この長編は完成しなかった。

こういった経歴を眺めると、常に新しい問題意識を持ちながら考え、実験し、執筆し、行動した作家であることがよくわかる。時代をリードするタイプの影響力のある作家だった。

よく知られている代表作『機械』を読んだ。天真爛漫な工場主とその妻、そして3人の工員の心理描写を描く筆致はさすがだと感心した。この本は風呂でkindleで読んだ。「ハイライト」という機能があり、他の多くの読者が線を引いたとことがわかるという仕掛けになっている。不思議なことに、私が線を引くところと同じところが多かった。

「いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気付き出した私の唯心的な目醒めのの第一歩となって来た。」「私たちの間には一切が明瞭に分かっているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計ったままにまた私たちを推し進めてくれているのである。」「その間に一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである。」「私はただ近づいてくる機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているの感じるだけだ。」

つまり、「機械」という奇妙なタイトルをつけた意味を探そうとしている読み方が共通していたというわけだ。この小説は、それぞれの登場人物の性格や心理描写のうまさはあるが、そのドラマも大きな意味では、それぞれが部品や歯車の様に構成されており、まるで一つの機械のようにできているのという世界観を感じた。それで「機械」という変わったタイトルをつけたのだろう。

横光利一の作品は他には読んではいないのだが、「新心理主義」という視点でこれ歩dの作品を仕上げる力量をもっているとしたら、新感覚、新心理主義、行動主義、純粋小説論、反ヨーロッパという見地から、次々に人目そばだてる作品を書くことができたのだろうと納得する。

太宰治の弟子の小野正文が太宰の自宅に訪ねたとき「作家にとって大切なのは勉強すること、つまり本を読むことだ」「横光利一が行詰っているのは不勉強のためだ」と言われたというエピソードを読んだことがあるのを思いだした。それが本当なら、最後の長編小説『旅愁』が完成しなかったのはそのためかも知れない。