神奈川近代文学館「吉田健一」展ーーー「余生の文学」

神奈川近代文学館吉田健一」展。

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吉田 健一(よしだ けんいち、1912年明治45年)4月1日 - 1977年昭和52年)8月3日)は、日本文芸評論家英文学翻訳家小説家。享年65。

東京生まれ。吉田茂首相の長男。外交官だった父の仕事の関係で外国暮らし。暁星中学を出たのち、英国ケンブリッジ大学に学ぶ。

翻訳、文芸批評、小説など多彩な文学活動を行う。『シェークスピア』『瓦礫の中』で読売文学賞、『日本について』で新潮社文学賞、『ヨオロッパの世紀末』で野間文芸賞を受賞。著書は多数。全集『吉田健一著作集』は全30巻、補2巻がある。

神奈川近代文学館吉田健一の生涯を追った。

ケンブリッジ大学のキングスカレッジでディキンソン先生から「ある種の仕事をするには自分の国とが必要」と言われ中退し帰国する。もう1人の恩師のルーカスには、帰国後「芸術と人生に専心する決意」を述べている手紙があったが、なかなか進路は決まらない。

川上徹太郎からは、日本語を学べと森鴎外全集を読めとアドバイスを受けてうる。健一にとっては日本語は外国語に近かった。そのため、デビューは37歳と遅かった。

1937年、19歳で1つ年上の中村光男と出会い生涯の友となる。

祖父の政治家である牧野信伸兼顕の自伝の口述筆記も引き受けている。祖父の時代を追体験したのである。

文学については「人間を感じさせる」という効用を述べている。

人生については、「虚無か充実か」、この2つしかないと言っているのが印象に残った。

「余生の文学」。なすべき仕事を終えて余生こそ、本当の文学の仕事ができるという。

几帳面な性格であったことがわかるのは、原稿用紙のマス目が最後まで埋まっていることだ。依頼された仕事の最後は、読点のマルで終わっているのは見事だと感心した。

著作集の構想は48巻まであったらしいが、実際には30巻で終わっている。その全集は分野ごとではなく、発表の順に作品を並べているの特色であった。だんだん成長していくのがわかるからだろう。

吉田健一は旅好きであった。「時間がゆっくりたっていくのを感じる感じたいから旅に出る」と言っている。旅に出ると精神の精神が息を吹き返すのだ。

翻訳について。一種の批評である。批評も翻訳もいずれもあるところまでいけば同じことになる。

食と酒の評論家。食と酒。日本海の酒田と新潟がお気に入り。

展示を眺めていると、この人は友達との交友に恵まれていたと感じる。それが『交遊録』になった。三島由紀夫とはトラブルがあり、お詫びの手紙も展示されていた。

「技芸の道は長く、人生は短い」

 

文学館で3冊の著書を買った。『わが人生処方』『交遊録』『父のこと』を読み終わった。以下、それらの本から。
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本当のところは、人生は退屈の味を知ってから始まる。

仕事の方が済んだ時に本式に歳をとる。あるいは若くなる。… .後の仕事の方が本物だと言うことにもなる。

最晩年の猛烈な執筆の時期は「奇蹟の8年間」と言われている。1970年から1974年にかけて、6冊の長編が立て続けに発表される。短編集については、76年、77年。美しい長編も77年に執筆される。これらが「余生の文学」ということになるのであろう。

娘によれば、週に6日は仕事をして、1日は外で飲むと言うリズムをもっと持っていた。享楽的な生活を送っているように見えるが、そうではなかった。実はストイックな人である。

「人間も50近くまで生きれば、やりたい事は大概やってしまうものである。…、人間が本当に人間らしくなるのは、それからではないだろうか」。

「余生」に入ることでその仕事を始めて「本物「になるのは、文学の世界だけのことではない。

『交遊録』は、祖父の牧野伸顕から始まって最後は父の吉田茂で終わる人物エッセイである。生涯に出会った友達のことを、出会った順番に変えていくと言う原則で書かれている。

父について。「働き盛りの時に仕事ができるどういう地位からも遠ざけられていてようやく外務大臣に就任したのが敗戦国の日本であることからしても父が不幸な人間であることを間違いないと思った」。「一口に言えば父はその一生の大半にわたって不遇の境地にあった」。「何か男にとっては仕事をするのが成長するのに必要なことであるようでその方面での自分と言うものを確認するところまでいかない間は成長は完了せず、その機会を奪われれば成長が阻止される」。

とにかく自分がしたいことを皆してしまった人間と言うのは良いものである。その安らぎは人にも伝わるものでもし動かし難いということがそういう場合にも言えるものならば父にはその意味で動かしがたいものがあった」。

さらに吉田健一には『父の事』と言う本がある。知られざる吉田茂の本音や日常が見えるのが面白い。この本で健一は父にインタビューしているが、父の回答は常にふざけているというか、何事も冗談や警句を発するのが特色であった。健一は父に対して「あなた」と呼び掛けているが、時々「パパ」と言う言葉が出ているのも面白い。

乱闘とすると、必ず新聞が書いてくれる…、(笑)

日本じゃぁ、男より女の方が上等なのじゃないか。(笑)。憎まれると、退屈謎しないもんだよ。(笑)

軍備と言うものは非常に金のかかるものなので、あえてそれをしたら、日本の国がなくなってしまう。、、集団防備なりを考えていけば良いので、日本一国で軍備をするなんて馬鹿の骨頂だよ。寝言と言わざるを得ないじゃないか。
我々が不満に思うのは、各新聞がそれぞれ主張があって書くべきなのに必ずしもそうでないことだ。

(横山大観)は嫌いだ。

国民が良ければ、政府が少し位悪くとも、いいのだよ。

イギリス人と言うのは、多年の間、世界的な教育を受けてきたのだから、そういうディプロマティックセンス(外交的センス)は、自然に身についているわけなのだ。

 

三楽として、吉田健一は、食べる楽しみ、飲む楽しみに加えて、「書く楽しみ」をあげている。文化勲章については、健一は「僕は、あれは、欲しいなぁ」と本音を述べている。しかし、短命だったため、それはかなわかった。父は遅咲きで、首相になったのは、68歳で、亡くなったのは89歳だった。健一にはそういう長い余生の時間は与えられなかった。父については「江戸っ子」と評しているのだが、世評とは逆に、不幸、不運の人という観察には考えさせられた。

 

 

 

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「名言との対話」4月15日。吉野せい「どこ迄も美しく正しくしたい」

吉野 せい(よしの せい、1899年4月15日 - 1977年11月4日)は日本の文筆家。 

福島県いわき市生まれ。網元の家に生まれるが没落していた。小学校の教師になる。山村暮鳥らと交流があり、新聞、雑誌などへ作品を投稿する。

1921年に詩人の吉野義也と結婚し、開墾生活に入る。厳しい自然に立ち向かっていく。

夫の死後、1970年に同郷の草野心平に勧められ、執筆活動を再開する。1974年、『洟をたらした神』を刊行する。翌年、大宅壮一ノンフィクション賞田村俊子賞を受賞した。76歳の受賞ということで大きな話題になった。このことは私もよく覚えている。受賞作は「残酷なまでに厳しい自然、弱くも逞しくもある人々、夫との愛憎などを、質実かつ研ぎ澄まされた言葉でつづ」られた女性の年代記である。

小沢美智恵『評伝 吉野せい メロスの群れ』という本がある。「文壇とは縁もなく生きてきた「百姓バッパ」が、七十代半ばになって刊行した本『洟をたらした神』。その作品は、これまでの文学者の誰ひとりとして描きえなかったような生活の重みと、鋭い切れ味の文体を持っていた」との紹介がある。

吉野せいというペンネームを名乗った。「どこ迄も美しく正しくしたい」との願いを夜空に輝く星の読みである「せい」を用いた。50年間の苦闘の生活の中でも、この願いを忘れずにいたのであろう。吉野せいは、価値のある二つの賞を受賞した翌年に亡くなっている。

ペンネームのつけ方は多様であるが、志を述べた人は多い。吉野せいもその一人である。それは自らを励ます。自分は「星」のように、いつまでも美しく正しくありたいとの志を抱き続け、最晩年の証明したことに感銘を受けた。この名作とともに、吉野せいの名は美しい星のように輝き続けることだろう。