鴎外の信奉者・吉野俊彦の81歳時の肉声を聴いたーー「覚悟、実行、継続」

カルチャーラジオNHKラジオアーカイブスの9月は渋沢敬三日銀総裁民族学研究者)と吉野俊彦(日銀理事と鴎外研究者)。二人とも二足のわらじ、二刀流の体現者。

吉野俊彦の肉声を聴いた。81歳当時の音声は元気で、かくしゃくとした語り口だ。

吉野俊彦は、私にとっては、主として30代の10年間を通じて、サラリーマンとライフワークの間を揺れる自分を、著書や雑誌記事で、励ましてもらった人である。

吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。

千葉県生まれ。武蔵高等学校を経て、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。次長時代には安定成長論者の代表として大蔵省の下村治を代表とする高度成長論者と激しい論争をし批判されている。この不遇の時代に鴎外研究へのめり込む。

1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。退任後も経済書を出版するなど90歳で没するまで生涯現役だった。

吉野俊彦の名言として選ぶなら、この番組の中で熱を帯びて語っていた「覚悟、実行、そして継続」だろう。覚悟が誰でもするが実行しない。実行はするがすぐに挫折する。挫折しないで長く継続できるか。それが本当の生を生きる秘訣である。

手に入れるべき本:『妄想』。『青年』。『水沫集』(『美奈和集)の改訂版の序。『追難』の頭書き。鴎外の箴言集:随筆『知恵袋』『心頭語』『慧語』(小堀桂一郎)『鴎外漁史とは何ぞ』。

今の生活の先に本当の生活はあるのか。現在に生きがいを。ヘトヘト、ちょっと寝る、12時に起きて2時まで。石油ランプ。亀のように学び続ける。「一日を過ぎれば一日の長を得ている」(鴎外)、、、。

鴎外は「酔生夢死」という生き方はしたくない。酔っぱらっているかのように生き、夢を見ているように死んでいく。何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。ぼんやりと無自覚に一生を送る。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく。

対義語は「精励恪勤」で、「力の限りに仕事や学業に励むこと」だ。

小倉時代:哲学的基礎(ドイツ)を学び美学の理論を体得。フランス語を習得。再出発に備えた勉強。そして批判をかわすための「翻訳と史伝」を発見した。

坪内逍遥との「没理想論争」、描写だけでよいとする逍遙と理想を込めるという小説の在り方をめぐる論争。

鴎外の知的生産物は『森鴎外全集』38巻という膨大な量に結実している。立派な日本人、優れた先輩として、吉野は仰ぎ見ている。

複線的生き方をした鴎外の文学活動には前期と後期の間の沈黙の15年がある。日清戦争日露戦争、小倉の生活の期間は沈黙の時代だ。『即興詩人』は9年かかって小倉時代に仕上げた。平日は夜、日曜は昼が勉強の時間だった。このような厳しい生活を送る鴎外にとって、陸軍な武、世間から投げつけられる批難は冤罪というしかない。。

さて、吉野俊彦である。鴎外を師とする吉野は、専門の経済書以外の著作は膨大だ。

鴎外論。13冊! 57歳から84歳の間に書いた。

サラリーマン論。吉野は62歳から74歳。私は20代後半から40歳直前までの苦しい時期によく読んで励まされた。

  • サラリーマンの生きがい 生涯を賭けた仕事を持て 徳間書店 1977.12 。サラリーマンのライフワーク わが生きがい論 徳間書店 1978.8 。サラリーマンの哀歓 わが出処進退十訓 徳間書店 1978.12。サラリーマンの知的読書法 経済書から文学書まで 東洋経済新報社 1979。複線的ライフワークのすすめ サラリーマン生きがいの探求 充実した人生をどう創るか PHP研究所 1984。ビジネスマンとしての「私」の勉強術 講談社 1989.1。わが家のルーツ探し プレジデント社 1990.11。企業崩壊 私の履歴書(正・続) 清流出版 1998.12。

晩年には永井荷風にも関心を寄せている。84歳と86歳。

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埼玉所沢にできたサクラタウンの「角川武蔵野ミュージアム」を訪問した。

角川歴彦松岡正剛隈研吾。、、、

俵万智展。

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「名言との対話」9月28日。吉田武彦「サービス力は世間話力」

吉田武彦(1937年9月28日‐)は日本の経営者。ビジョンメガネ社長。

中小の町工場がひしめく東大阪で、4人兄弟の次男として生まれる。父親のはメガネの下請け工場を経営する実直な職人であった。吉田は大学受験に失敗し、父の経営するシミズメガネで、製造から貿易、小売りまで幅広く学ぶ。1976年に独立し、後に小売り大手となるビジョンメガネを創業した。思い切った店舗展開と現金買取りの経営手法で急成長する。吉田はメーカーからメガネを買い付ける時、全て現金で支払い、一切返品をしなかった。そのため、従来の50~60%の値段でメガネを仕入れることができた。また、メーカーとの約束事を守り、一度も反故にしなかった。小売業界きってのアイデアマンとして数々のヒット商品を世に送り出し、2002年には自宅のパソコンでメガネが買える「どこでもメガネ」システムを開発するなどメガネ業界の革命児である。

ギリギリまで吉田の独立に反対した父親は、1984年に亡くなるまで保証人の判を押し続けた。その後、ビジョンメガネを立派に育て上げた吉田はシミズメガネの保証人となる。「今度は自分が死ぬまで判を押すつもり」と語っている。

「毎日、いろいろなお客さんに応対しなければならない小売りの仕事は、製造業とは違った辛さがある。でも、1人のお客さんで失敗しても、次のお客さんで失敗するとは限らない。いくらでも修正がきく。こんな面白い商売はない」。

メガネビジネスは健康産業であり、情報産業でもあると考えていた。創業当初から分不相応の投資をしていた。コンピューターで全ての顧客を情報管理。電話番号と生年月日を入力するだけで、お客さんがいつどんなメガネを購入されたか、奥さんはメガネをかけているのか、子供さんはどんなメガネをかけているのかが全て分かるようになっていた。

震災時。老眼鏡を無料で配り始めた。さらに、検眼するための医師を同行して被災者が避難している集会所を回り、合計1万本の老眼鏡を配布して回った。その年ビジョンメガネは前年比50%増の74億円の売上げを計上。長い間、突破できなかった50億円の壁を一気に超えた。また、利益も8億円を上げ、直面していた危機を乗り切ることができた。「老眼鏡を無料で提供したり、メガネを安くしたり、初めは私たちの方が奉仕したつもりだったが、反対にお客様に助けてもらう結果になった。『情は人の為ならず』と言いますが、この時は本当にその通りだと思いました」。

吉田はパソコンで視力を測れないかと考え、パソコンによる検眼システムを世界で初めて完成させた。吉田はこの検眼システムに、約1万種類のフレームからお気に入りを選べるシュミレーション画面を合体させて、「どこでもメガネ」ショピング・システムと命名。いつでも顧客の好きな時間に自分のペースでメガネを買えるシステムを作り上げた。構想に5年、開発に3年の歳月を費やし、実に5億円の開発費がつぎこまれていた。

吉田は、メガネ店に入ってくるお客で、実際にメガネを購入するのは5人に1人であることを踏まえ、「メガネはメガネ店で買うもの」という常識をも根底から覆す。

65歳で退任し、新たに眼鏡会社(株)プラネット・ビジョン60を設立。新会社は事業こそ順調だったものの、連帯保証の借金をきっかけに破産へ。吉田武彦社長は「親父の教えを守っておけばよかった」と悔やんでいる。ハンコをむやみに押すなというアドバイスを忘れていたのだ。

「世間話をしたかったら、新聞はテレビ欄から読め」、「サービス力は世間話力」だ、という。新聞はテレビ番組欄から読む。次はスポーツ欄。世間話するだけだったら20分読む。将来いい生活をしたかったら2時間読む。週刊誌は電車の中吊り広告を見て、題だけを覚える。それはなぜか。「新聞を読んでおかないと世間話ができないので、ついお客様のプライバシーに入ってしまう」からだ。

モノづくりの町が生んだメガネ販売の革命児、メガネ業界きってのアイデアマン、早い段階でのコンピュータの導入、情報入手の方法の吟味、仕事で会った人に送る礼状はもちろん、入社試験でビジョンメガネを訪れた学生にも自らの気持ちを手紙2枚にしたためるという、ファンづくりの方法、、、。吉田武夫は情報感度の高い経営者だった。

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「名言との対話」吉田武彦「食糧の輸入をできるだけ減らす」

生年月日?

大阪生まれ。東大農学部農芸化学科卒。農林水産省入省。

専攻は土壌肥料学で、おもに作物の根の整理と養分吸収の研究を行う。著書に「水田軽視は農業を滅ぼす」などがある。

岩波ジュニア新書『食糧問題ときみたち』(吉田武彦。1982年刊)を読んだ。

世界における食べ物の生産と消費の仕組を説き明かし、人類の偉大な発明である農業の歴史を見直して、食べるということの大切さと飢えの恐ろしさを訴え、これからの時代のための食糧問題を考えようとする内容だ。以下、吉田の所論をまとめる。

日本人が食べている米以外の食料品の大半は、外国からの輸入である。穀物というのは主食だから自分の国でつくって食うのが原則。貿易に回るのは生産量の10‐15%しなかいが、日本は世界貿易の4分の1を輸入している。

1960年頃には穀物自給率は80%。しだいに低くなって1979年、33%。食生活が変わった。米を食べなくなった。おかず食い。食生活の洋風化。肉類の摂取。畜産物の生産を増やすには飼料用穀物を大量に必要となる。1キロの生産には数キロの穀物を家畜に与えなければならない。アメリカの安い穀物との競争と政治的な圧力があり農家は栽培をやめてしまった。いわば日本は工業製品の輸出とのバーターで農業を疲弊させてきた。

最近では世界では食料が戦略物資として武器のように使われることがでてきた。食糧の不平等はどんどん拡大している。日本ほど外国の穀物に頼っている国はない。金がなくなってくれば買えなくなる。防衛上の弱点になっている。

イギリスは2度の世界大戦でドイツの海上封鎖を受け、食糧難に苦しんだ経験から、穀物自給率を高めようとしている。現在でもそのイギリスは日本を除く先進国では最も低い自給率だ。それでも日本の倍近い数字になっている。

福沢諭吉は維新後に中津藩から問われて、「琉球のようになるのがよい。学校をこしらえて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせる方針をとるべき」と説いた。「弱藩罪なし武器災いをなす」だ。平和国家、科学技術立国のすすめである。

世界の軍事費の10%を削って農業開発に回すと、途上国の灌漑背水計画の2年分をまかなうことができる。軍事費を減らし、国内生産をあげよ。これが吉田武彦の1982年時の提言である。それから40年。日本の軍事費は増え、食糧自給率はわずかに上がったがまだ30%台にとどまっている。危ない。