鹿児島県立図書館の「海音寺潮五郎コーナー」を訪問。

鹿児島県立図書館の「海音寺潮五郎コーナー」を訪問した。弟子筋ともいえる司馬遼太郎と写っている写真は貴重だ。書斎で執筆す写真も興味深くみた。

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年明治34年)11月5日 - 1977年昭和52年)12月1日)は、日本小説家作家

1929年、中学校の教師時代に、「サンデー毎日」の懸賞小説に当選。この時から海音寺潮五郎の筆名を使用する。1934年、専業作家となる。歴史上の記録である膨大な史料を用いて史実と虚構を峻別しながら、歴史の真実を描く伝記である史伝文学の復権をめざした。史伝文学は、歴史上の人物や事件を対象として作品を物語形式で記述する方式で、フィクションの要素を完全に排除するやり方だ。森鴎外の書いた「渋江抽斎」は、史伝文学の傑作である。

海音寺は「歴史はまず文学から入るべき」という考えを持っていた。史実のみを社会科学的に教えることは、歴史への関心を失くすという主張である。歴史の学び方はまず文学からという主張には賛成だ。文学、そして漫画、講談、アニメ、ゲームから学ぶのがいい。

1959年から「武将列伝」と「悪人列伝」を『オール読物』に連載する。100人から200人を想定していたが、武将列伝33人、悪人列伝24人の計57人で終わっている。これを時代順に並べれば日本の歴史になるという構想だった。

絶頂期ともいえる 1969年に引退宣言し、大好きな西郷を描く長編史伝『西郷隆盛』の完成、『武将列伝』、『悪人列伝』に代表される人物列伝の一層の充実、5部作『日本』の完成を目指した。「大長編史伝」の『西郷隆盛』全9巻という長編が絶筆となるのだが、1977年に死去し、全生涯書くことはかなわなかった。他の作品もいずれも未完成に終わった。代表作のほとんどは未完成に終わっているのが残念な気がする。

NHK大河ドラマでは、1969年の「天と地と」、1976年の風と雲と虹と」に採用された。また、史伝文学の復興に貢献し菊池寛賞を受賞。文化功労者にもなっている。

第3回直木賞した海音寺は、直木賞選考委員として司馬遼太郎を高く評価し、第42回受賞に貢献した。しかし司馬と同年の時代小説家・池波正太郎には厳しく、何度も低評価を与えている。「この人にやりたいという人が多かったので、ぼくは棄権することにした。今のところ、ぼくはこの人の小説家としての才能を買っていない。ぼくを見返すようなしごとをして下さい」として、委員を辞任している。海音寺の史実を踏まえた史伝志向と、江戸という時代に題材をとった想像を膨らませた池波の歴史小説との違いだろう。その後の池波正太郎の活躍は海音寺の指摘に応えたと言えるのではないだろうか。

『新名将言行録』(河出文庫)を読んだ。海音寺は、この本の中で自身を「ぼくは」と表現していて面白く感じた。986年生まれの源頼義から始まり、1533年の島津義久、1569年生まれの立花宗茂まで16人の武将を取り上げている。私の郷里の中津の殿様であった黒田如水については、不運な人であると慨嘆している。一流中の一流の人物で、運があれば天下を獲ったかもしれない。遅れてきた天才だったとし、如水の訓戒、遺訓、遺品などについて解説している。如水より二つ年上で秀吉に仕えた竹中半兵衛は、一代の策士であるとの評価だ。策士は俗欲がなく、従容とした風姿を持ち、策を立て見事に運ぶことが楽しいという人物が多く、その代表が如水と半兵衛という指摘だ。名将の言行録は、いかに生きるべきかに悩む人々の指針になるから、当時は争って読まれただろう。

冒頭に掲げた「士は為さざる所あり」とは、立派な人はいかなる目的のためにも、いかなる場合にも、きたないことをしてはならず、必ず手段を選ぶべきであるという意味でだ。嘘をつく、責任を回避する、人を裏切る、そういう卑劣なことをせずに、堂々と王道を歩めという戒めだ。

海音寺潮五郎に向き合う中で、人物列伝に連なる「史伝」というスタイルに関心を持った。考えて見れば、私の「名言との対話」も人物列伝という色合いが強い。書いていながら、ふと歴史を紀行をしている気持ちになることがある。日々書き続けて数千人、あるいは1万人に達した段階で、それを生年順か没年順に並べると、に日本現代史、日本近代史、あるいは日本史になる可能性がある。海音寺潮五郎からはヒントをもらった。 

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寺島実郎さんから電話あり。「世界を知る力」は550万の視聴だとか。友人の動向など。7月に近況報告でうかがうことにした。

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「名言との対話」6月23日。岸田隆盛「醒めよ、吾が冷き理性、醒めよ、吾が、強き意力、常に爾(なんじ)を欺(あざむ)きて、眠らせんとする、卑屈なる吾を鞭打て、吾は弱し、されど、吾は、吾自ら進まざる可らず。醒めよ!常に醒めよ!」

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年明治24年〉6月23日 - 1929年昭和4年〉12月20日)は、大正から昭和初期の洋画家。父親は新聞記者実業家岸田吟香

劉生は15人兄弟の第9子の四男。画家として著名。この人も何をやっても一流だった。落語もうまく、打ち込んだら真打ちという腕前。1851年生まれで1929年に38歳で没。

「摘録・劉生日記」(岸田劉生著・酒井忠康編:岩波文庫)を読了。38歳で亡くなった岸田劉生の30歳の正月から5年間の毎日の日記である。この人の全集は全十巻なのだが、二期は全五巻であるから、文章もうまかった画家の代表書籍といってもよい。自分が描いた挿絵もうまい。友人たちと自宅に作った土俵でよく相撲をとっている。武者小路実篤木村荘八志賀直哉梅原龍三郎中川一政山本鼎倉田百三、など同時代の友人たちの名前が頻繁に登場する。娘の麗子ことの記述も多い。代表作品「麗子像」のモデルである。

関東大震災の様子の記述も生々しい。「ああ何たる事かと胸もはりさけるようである。家はもうその時はひどくかしいでしまった。もう鵠沼にもいられないと思ったが、これでは東京も駄目か、、、、。つなみの不安でともかくも海岸から遠いところへ逃れようと、、、」

  • 全力を尽くさなくてはならぬ、芸術の神の前にのみ自らの画を見せることを思え。
  • 他人に何と思われても自分は自分の仕事の世界をのこせばこれ以上の誇りはない。

「これからずっと続けたく思う。一冊、一年中の事がこの日記に記されたら不思議な味の本になる。」と日記を書く事にした決心を語っている。その通りの味のある本に結実している。

「一見して人の心をうつものをかきたい。深い力で、そして見れば見る程深いものを。これが自分の為す可き仕事であり道である、、」(岸田劉生

愛娘・麗子の5歳から16歳まで膨大な作品群を描き続けた天才画家・岸田劉生は、人生遍歴を重ねながらとうとう、自分の歩むべき道を発見した。立派な芸術作品をみるとシーンという感じになることがあるが、一ヶ月半を費やした労作である有名な麗子座像は、岸田の気迫がひしひしと伝わってくるそのような作品である。為すべき仕事を為す、これが歩むべき道である。

因みに、父の岸田吟香の生涯も興味深い。世田谷美術館で、岸田吟香岸田劉生、岸田麗子という三代の芸術家一家の歴史を追う企画展をみた。吟香は1833年岡山県うまれ。昌平坂学問所で学んだ尊皇攘夷の志士。1850年代は、ヘボンの和英辞書編纂を手伝う。日本発の民間新聞を刊行。1870年代。東京日日新聞主筆。日本最初の従軍記者として台湾取材。明治天皇巡行に随行。目薬を扱う楽善堂を創業。1880年代。訓盲院を開校。1890年代には 中国、朝鮮の地図を編集。日本薬学会や全国薬事業組合の要職。1905年、72歳で没。

なんと目まぐるしい人生か。左官、泥工、八百屋の荷担、湯屋の三助、芸者の箱丁、妓楼の主人、茶飯屋の亭主、骨董屋まがいの商売、、と「ままよの銀次」となる。銀公が変じて吟香となった。横浜で企業家となり、江戸横浜の定期航路、北海道函館での氷製造販売、越後での石油採掘、などを経て、ヘボン直伝の液体目薬の製造販売で成功。
180センチ、90キロの巨漢。絵を描き、書もうまく、実業もできる。わが国発といわれる形容がつく事業が多いのが特徴だ。「維新諸行 翁実唱始」の人。
「本格的和英辞書」「博覧会批評」「従軍記者」「記者としての天皇巡行随行」「芸術家への海外留学支援」「中国地誌図」「東亜同文書院」「盲学校」、、、。すべて初物である。画家の高橋由一、写真の下岡蓮杖、浮世絵画家の小林清親田崎草雲など友人も多い。東京日日新聞では、本名福地源一郎の桜痴の論説と吟香の雑報が二枚看板だった。才能を撒き散らしたところなど、この二人はよく似ている。時勢に応じて立ち位置を少しづつ変化させるなど、先見の明と巧みな処世術だった。