「図解塾」:「情報の文明学」の図解化プロジェクト、中間点を通過。

「図解塾」5期の6回目。「情報の文明学」の図解化プロジェクト進行中。中間地点を通過。

塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。解説で具体的な例などが示されて、すき間が埋まってよく分かりました。「疑似産業」「期待産業」など、社会の中で使われてはいませんが、いろいろな産業を解釈する上でたいへん分かりやすい表現だと思います。また、「情報の情報」のページで、「アダプター」と「アセンブリー(プラットフォーム)」も目から鱗の新鮮な見方でした。現在につながり、将来にも延長していく産業の見方だと思います。最後に言われた「つらぬく人とつらねる人が必要」という言葉も、たしかにそうだと思います。語呂合わせもいいし、これから折に触れて話の中などで使っていこうと思います。
  • 本日もお疲れ様でございました。宿題だった清書した図の説明から、もう一度詳しくお話くださり、分からなかった点が線でつながりました。ありがとうございました。文明系の発展を、装置と制度の組み合わせで考えることで理解しやすく、情報産業の趣味化のお話では、具体的なものをあげることで情報を伝えることがたやすくなることの具体例を見ることができました。また、だれが金を払うのか、など、図でみることで→いれたいけれど、という箇所も出てきたり、期待産業ということばも、それぞれの装置の内容を詳しくつくと、どこが期待なのかが理解できました。梅棹先生のおっしゃってる単語は奥が深いなと思いました。情報の情報ではアセンブリー産業の箇所が面白かったです。なるほどますます大きくなっていって、次週清書される編集のお話は、こことつながっていると思いました。免許とお免状のお話も、情報手段の独占、非独占と区別するなど、おもしろかったです。次回も、みなさんで清書された図をもとにまた解説していただくのを楽しみにしております。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。前回に続いて梅棹忠夫先生の「情報と文明」手書き図解のパワポ化。今回は「情報の考現学」の部分を発表させていただきました。情報産業社会ではあらゆるものが消費と結びついて趣味化し、新たな産業・サービスが生まれている、ということがよくわかりました。例えば「農業」が趣味化すると「一坪農園」が、また「工業」が趣味化すると日曜大工や陶器づくり、ハンドクラフトなどの市場が新たに広がっていくといった見方は大変面白く感じました。また、情報社会をお金の流れからみると、実は情報の伝達者が一番潤う構造になっていること、 「情報の情報」を扱う 批評家や解説者などが不可欠となる社会であること、出版業は「情報を組み立てる」産業であることなど、面白い視点がたくさんあり興味深い内容でした。次回は「空間と時間」という切り口から「情報」を扱う部分を担当します。引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、今日もありがとうございました。大遅刻での参加申し訳ありません。。。情報産業の形として、情報を生産する人と編集する人という役割分担が生まれてくる話は、梅棹先生が事例として挙げている産業や職業以外にも今の時代で当てはまるものもいろいろとあることが想像できました。梅棹先生が選んだ言葉とは違う形で定着しているものも本質は同じと考えることができると理解しました。久恒先生からご紹介のあった言葉「異質のものを組み合わせることが創造」とはまさしく昨今、言われているイノベーションですし、「貫く人(つらぬくひと)と連ねる人(つらねるひと)」という言葉はゴロも良く、産業人をざっくり分類するのにぴったりの言い回しだと思います。次回もよろしくお願いします。
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昼食は、橘川さんと。

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「名言の暦」6月22日。堀越二郎「私の武器は、納得がゆくまで自分の頭で考えることだった」

堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年明治36年)6月22日 - 1982年昭和57年)1月11日)は、日本航空技術者 

群馬県藤岡市出身。東京帝国大学工学部航空学科を卒業後、三菱内燃機製造名古屋工場に入社した。日本海軍九六式艦上戦闘機の設計者となり、零式艦上戦闘機ゼロ戦)の開発責任者となった。ゼロ戦は、長大な航続距離と優秀な操縦性能により、かくかくたる戦果をあげたことはよく知られいる。採用された1940年は、日本の紀元2600年だったところから、末尾の零をとって零式艦上戦闘機と名付けられた。「兵器ではなく工芸品」とまで呼ばれた名機である。は格闘能力・運動性能(源田実)と速度と航続距離(柴田武雄)という二つの課題を高度の技術で解決した名機であった。アメリカのパイロットたちは「ゼロに逢ったとき、ゼロには一対一の格闘戦をするな」という指令が出されていたという。堀越は零戦の後は、雷電や烈風の設計主務者をつとめている。

戦後、ゼロ戦操縦装置の基本理論で工学博士となり、東京大学宇宙航空研究所、防衛大学校日本大学などで教職につく。1957年に始められた初の国産旅客機YS-11の開発・設計にも携わっている。1962年から日本航空学会会長を務めた。

堀越二郎が生まれた1903年は、堀越自身が自伝で語っているように奇しくもライト兄弟が初めて有人動力で空を飛んだ年である。

大学同期の木村秀政が「綿密で粘りこくて緻密な男」と評していたように、口下手で内向的であった。

ジブリのアニメ作品『風立ちぬ』のモデルとなる堀辰雄の婚約者・矢野綾子は、辰雄31歳の時に富士見の療養所で死去する。この堀越二郎を掘辰夫の名作「風立ちぬ」の主人公としてゼロ戦設計者・堀越二郎を描いたのが、宮崎駿版アニメ「風立ちぬ」である。

原作・脚本・監督の宮崎駿によればこ、映画の絵コンテを描き終わったのは、東日本大震災の前日だったとのことだ。関東大震災から始まって、第二次大戦での敗北に終わる宮崎版昭和史は、3・11とも関係していたのだ。

子どものためのアニメしかつくらなかったジブリが初めてつくった大人のための作品だ。天下国家のための仕事と自分の家族との関係を両立させようとした物語となった。堀越二郎の上司であった父を持つ野田一夫先生はこのアニメをみて、実際の姿とは違うと違和感を語ってくれたことがある。

堀越二郎の「零戦 その誕生と栄光の歴史」(角川文庫)では、堀越二郎が自分のことや創造性について語っている。私の武器は、納得がゆくまで自分の頭で考えることだった」の言葉の後には、「裏づけのない議論のための議論はきらいで、実物と実績で見てもらいたいという主義だった。、、これこそが、技術に生きる者のよろどころであることを身にしみて感得した」が続く。

そして「技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とはちがって、いつもきびしい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事をなしとげるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破ってゆくだけの自由な発想が必要なこともまた事実である」とも語る。

堀越には「実物、実績、事実、現実」など「実」という言葉が多い。技術者の仕事には時間、予算など、常にきびしい制約条件がつきまとう。その枠の中で最高水準の成果をだすためには、さらに「実」を越えた自由な着想、発想も求められるとも語っている。技術者として課題に向き合う私たちの目の前の仕事も同じである。

 

(参考資料:文芸春秋2013年8月号「風たちぬ。宮崎駿半藤一利対談」。Gakken「堀越二郎零戦」。堀越二郎零戦」。映画パンフ)