母の一周忌。

母の一周忌を宝蔵寺で無事に済ませた。少し早めについて、お墓にお花を供えて、墓石に水をかけて、お参りをする。

10時半から本堂で、住職と副住職による、昨年亡くなった母と20年以上前に亡くなった父に向けた読経と、兄妹夫婦の焼香。

宇佐神宮の神様が羅漢寺に詣でる時に、途中で寄り、宝物を保管しておいたのが宝蔵寺だと副住職から聞いた。また、久恒家のルーツについて、山口の大内家に仕えた飛騨守の流れ、藤原不比等から始まる久恒家の系図、久恒庄の存在、久恒別荘(久恒鉱造)の現在、中津市歴史資料館の久恒家のルーツ探索など、新しい知見を聞く。

 

来年は母の3周忌と父の23回忌が一緒になるという節目の年になることを確認。

住職に、母の戒名のいわれなども記した「久恒啓子遺歌集 風の余韻」をお渡しする。

 

終わって、自宅に戻り、一休み。

 

「井上」という店で打ち上げの食事会。

 

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「名言との対話」626日。パール・ バック「文明の程度は、それが弱い人、頼るところのない人をどのように尊重しているかによって測られるのです」

 

パール・サイデンストリッカー・バックPearl Sydenstricker Buck、中国名:賽珍珠1892626 - 197336)は、アメリカ小説家

南長老ミッション宣教師の両親と中国に渡り、そこで育つ。処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表して1932年にピュリッツァー賞を受賞。『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作を成す。1938年にノーベル文学賞を受賞した。

 

私は母親からこの大作」大地」を勧められ、読んでいる。パールバック著・伊藤隆ニ訳『母よ嘆くなかれ(新訳版)(法政大学出版局)を読んだ。それは大作家の回想ではなく、一人の母親としての苦悩の物語だった。

生涯の半分に及ぶ40年を中国で送っているパールバックは若い時代から、何冊も本を書きたいと思っており、いつでも充実感に満ち溢れた生活をしたいと思い続けていた。

25歳のパールバックは宣教師で農業経済学者であった夫と結婚し3年目に女の子を出産する。その子は知能の発達が困難な障害を持っていた。ダウン症である。生まれてすぐに中国人の看護婦は「この赤ちゃんにはきっと特別な目的がありますのよ」といってくれた。

精神的な苦闘のあげく、パール・バックは意味のないものから意味を作り出そうと決意する。

パール・バックの娘は音楽を聴くことが好きだった。特に讃美歌とクラシックには感動する。しかし、成長することがないということを認める、ことから始まる。

「わたしがいなくなったら誰が面倒を見てくれるんだろうか」という疑問にいつも悩まされる。成長しないということは、自分の状態を子どもが自覚するようになる可能性がない。この場合は悲しむ必要は無い。人生の重荷は子供から取り除かれその負担は親にかかってくるのである。

パール・バックは娘の住むところを探す決心をする。「決心すると言うことには測りしれない安心感があるものです」。

娘にとっての幸福は彼女ができる範囲内で生活することができるということであった。

9歳になるまでそばに置く。第一に子供たちのことを考えてくれる人をさがす。園長ににふさわしい人が学園長しているとを探すのがよいという結論に達する。

知能の発育が困難で、大人の水準に達しない子供の母親になったパールバックは、長い悲しい旅を続ける。そしてある養護学園を娘の永遠の家と決めて託すことになった。その園長は「幸福な子供たちだけが、学ぶことができるのです」と語る。大勢の中の1人であること、自由は多少少なくなっても、得られるものと比べてなくてはならない。そういって諭してくれた。

パール・バックは「人には全体として必ず個性があるのであり、知能の発育が困難な子どもも、他のよい性質によって十分に補っているものだ」と考えるようになっていく。

その上で同じ悩みをもつ若い母親へのアドバイスは、法人資格があり、資金が豊富な組織がよいということだった。

 

娘の終の住処となるウェルカム・ハウスは、パールバックがノーベル賞で得たお金を始め、原稿料や印税のほとんどを押さえ込んで運営されていた。

「わたしは一つ一つの言葉の生命(いのち)を誰よりも大切にしました」。パール・バックは、「いのち」を大切にしたのである。

 

文明の進歩とは何か。野蛮の状態から抜け出ることだ。不条理が少なくなることである。不条理とは本人の責任でないことで、差別を受けることをいう。社会的弱者を尊重する。それが文明の進歩だとパール・バックはいう。

社会には、世界には、不条理が満ちあふれている。それらを一つひとつ解決していくことが文明の進歩なのだ。日本、そして世界を見渡すと、長い道のりであることがわかる。

人間の不平等の存在と、それに対する怒りが、『大地』などパール・バックの文学に表れている。パール・バック平和運動に力を注いで81歳の生涯を終える。その土台には、障害児を持った母親としての苦悩が存在したのである。