図解塾⑥期⑳
「二つの比較文明論」「比較文明論の」「文明学と日本学」「近代世界における日本文明」の4枚の図解をもとに講義。
以下。塾生の学び。
- 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。久恒先生近況のお話から。①雑誌取材、夏休み企画「ユニークな記念館」特集の取材で紹介、松本清張、坂本九、瀬長亀次郎、安藤百福…いずれ『人物記念館ミュージアム』を作りたい、先ずはHP上でスタート、という構想とか…。②寺島先生『世界を知る力』対談編、「ウクライナ戦争500日」天江喜七郎氏/下斗米信夫氏との鼎談、欧州とロシアとの綱引き、ウクライナ耐久力のワケ=農業国、コサック民族(勇敢、ど根性)、ロシアおよび西側諸国の読み違いも有り、NATOへ加盟したら第3次大戦の恐れ?…日本は終わらせるメッセージを。加担したらアブナイ。もっともっと外交力が必要。③『ブレインワークアウト』(安川新一郎著KADOKAWA刊)を読了、体を鍛えるアスリートと同じく、俯瞰思考(鳥瞰)でブレーンを鍛える→ブレーンアスリート。脳を鍛えて、明確な答えが無い問題に「答えを探求する」能力を。苦しんでこそいい結果がデル。ヒト、旅、本…体験で鍛えよ。そして睡眠(これが不足気味!)。…さて本題、先週に引き続き梅棹著作集「文明学」構築について久恒先生よりレクチュア頂きました。先ずは、難しかった先週分3つの図のおさらい。①文明の科学:理論的な「文明論」から一歩進み『生態学』『歴史学』の裏付けに則る『文明学』を提唱。②文化と文明:後天的・社会的に伝達された抽象概念たる『文化』は人間が作り出したシステムに基づく実体概念たる『文明』により包含される関係性である。③生態系から文明系へ:「道具」「機械」「設備」といった有形の装置と「制度」といった無形の装置から成る、実体的な「文明」に基づく『定量』的な比較により記述されたもの。…う~ん、いまだ難解!。そして今週新たな図解を3つ。④「二つの比較文明論」では、明確な構図を形成し関係性を説く『連ねる』と、分子レベルまで突き詰めて探求する『貫く』という2つのアプローチにより日本文化を比較研究するという手法…難解。⑤「文明学と日本」もう難解で割愛、⑥「近代日本における日本文明」では、「生活」を支える「装置」(ハードウエア)と「制度」(ソフトウエア)で構成される『文明』と、これにより投影された人間が享受する価値体系たる『文化』に位置付けられ…うーん難しい。活用できるレベルまで理解するには??。分かり易い例えで少しでも理解したく、「カレー」に置き換えるとこんなかんじでしょうか。材料や道具は「ハード」、レシピや調理上の注意事項は「ソフト」。これら個々情報は『文明』に該当し、世界のどこでも同じ理解で通用するモノ。一方、これら情報は夫々のジャンルで幾つも種類があり、組み合わせの結果出来上がったモノは日本の家庭的なカレーライスであったり、エキゾチックなインドカリーであったり様々で、思いもよらぬ帰結に時として驚きを伴った大きな喜びや新鮮な感動を我々人間は感じる事が出来ます。これはつまり、『結果として得られる新たな価値観=多様性』を甘んじて受け入れ、理解・尊重し、時として自らの既成概念とのギャップを楽しむという心の在り方、これこそが『文化』というものではないかと考え至った次第です。今世の中で発生している不条理、紛争等という『文化』に真っ向相対する事柄がメディアで連日報じられてますが、『文化』に立脚した人の行動こそがいま必要であると感じた次第です。文学、教育、芸能…具体的なシチュエーションでレクチュアが続くとの事。理解が深まればと今からワクワク致します。次回も宜しくお願い致します。有難うございました。
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久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は、梅棹忠夫著作集第5巻「比較文明学研究」の続きで、前回の図解の復習も含め6枚「文化と文明」・「生態系から文明系へ」・「ふたつの比較文明論」・「比較文明論の課題」・「文明学と日本学」・「近代世界における日本文明」について解説がありました。今回も難解なお話でしたが、以前いただいた図解資料に加筆されたものを使って解説いただいたので、その後の意見交換では参加者同士でより活発に解釈や意見を出すことができ、久恒先生のもと、梅棹先生が当時どのような考え方をされたのかについて、少しですが、近づいたんではないかという気がしました。特に「文化とは、文明とは、その違いは」という点について深く議論することができ、また料理に例えて話し合ったことなども楽しかったです。著作集を読んだことがないのにみなさんと意見交換ができる、そんな図解塾の時間は、私にとってとても貴重で、頭から湯気が出ている状態ですが、いつも楽しみにしております。引き続きよろしくお願いいたします。
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図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆さま、ありがとうございました。前回の振り返りとして「文明の化学」「文化と文明」「生態系から文明系へ」を説明していただき、今回は、①「二つの比較文明論」②「比較文明論の課題」③「文明学と日本学」「近代世界における日本文明」を図解により説明していただきました。特に印象に残ったことは、1980年6月に梅棹忠雄還暦記念シンポジウム基調講演でテーマ①「二つの比較文明論」の開催された三年後に、「比較文明学会」が、新しく設立されたということから、このテーマの内容がいかに大事かということがわかりました。また比較文明論の分野の成功例は、まだないということで、新しい分野であることがわかりました。1983年3月比較文明学会創立総会記念講演では、西ヨーロッパは自己中心主義のため、比較文明論は難しいが、日本は、他国のことも考えれることもでき、西ヨーロッパより自己中心性が克服されており、比較文明論は展開しやすく、日本向きの学問であると述べられ、日本が取り組む必要性のある文明論であることがわかりました。 1983年2月、谷口国際文明学部門では、③「近代世界における日本文明」が報告され、「現代文明とは何か」について述べられており、興味深い内容だと思いました。文明と生活(装置と制度)と文化について図解で説明され、装置は家電や車、道路、都市などが含まれているとのことで、現代の生活になじみがあるものなので身近に感じました。近年では、パソコン、スマホ、インターネットもあてはまるのでは思いました。そういう技術革新も文明の流れにつながるかもと思いました。今回も図解塾も、知らない知識を知ることができたり、いろいろな感想や意見を共有でき、考えを深めることができたので楽しかったです。また次回も楽しみにしております。
- 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今回は梅棹忠夫先生の『比較文明学研究』の続き。「文化と文明」「生態系から文明系へ」「ふたつの比較文明論」「比較文明論の課題」「文明学と日本学」「近代世界における日本文明」の6つを、久恒先生の図解で学び、文明と文化の違いや比較文明論の考え方などを大くくりに眺めることができました。ただ内容を具体的にイメージするにはもう少し咀嚼が必要と感じました。 例えば「日本と中国についての比較文明論的な考察」。両者の「文化は共通項が多い」が「文明的に違う」(諸要素の組み合わせ方、構成の方法が違う)というところなどは、料理をイメージ(食材は共通だが料理の仕方が異なる)すると分かり易い部分かと思いました。また「比較」という方法論にも興味を持ちました。比較するには、「自己中心性(自分が中心)を克服していないとできない」というところなどは、確かにそう感じます。客観的な視点が必要で、「健全」なイメージも持ちました。抽象的な概念を読み解く感じで難しいところがありますが、次回、次々回と理解が深まるのを楽しみにしています。
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久恒先生、皆様おつかれさまでした。本日も難しかったです。なんとなくこんなことをおっしゃっていたのかなぁということをまとめてみました。日本民俗学と人類諸文化からの民族学を比較して諸文明を「つらねる」理論と「つらぬく」理論の探求。つまり諸文明の「関係」と一つ一つの文明の「構造」から、文明を学んでいこうという学問。比較文明論の課題とは、自己中心性を克服し自己相対化がすすんだ文明が展開しやすい。日本向きの学問だということ。文明学と日本学を比較し、日本中心の比較文明学と、この比較文明学の立場からの日本学を学ぶのがねらい 近代世界における日本文明では、文明は装置と制度からなる生活を文化に投影して成るもの。ここは、みなさんが食べ物にたとえて説明してくださったので、いろいろな考えを聞けてイメージがふくらんで、面白かったです。今までの講義で、「アナロジー」つまり、たとえることは理解を深める、進めることの手助けになることを改めて感じました。自分に合ったものに例えながら、イメージを膨らませて、次回も講義を受けたいと思います。ありがとうございました。
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前回に引き続いて「文化」と「文明」について話題になりました。他の参加者の皆さんもその部分についてのコメントや自分はこう捉えた、という話が多かったと思います。最後の方で出てきた「文明は装置と制度と文化で成り立っている」ということ。装置は衣食住などの「モノ」、制度は日常の習慣や作法、文化はものの考え方や感性で、それらを統合したのが文明かな、と考えました。1980年の梅棹先生の還暦記念シンポジウムの講演で、「日本民俗学=日本文化の内省」と「民族学=諸文明をつらぬく理論の研究」を比較すること、そして「諸文明をつらねる理論の研究=進化の思想(生物多様性、生態系における生物どうしの関係)」と「諸文明をつらぬく理論の研究=生物体の徹底分析(DNA、細胞、代謝といった生物の共通性)」というところは分かりました。
- 参考:比較文明学会 | (hikakubunmei.org)
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「名言との対話」8月2日。柴田承桂「医薬分業」
柴田 承桂(しばた しょうけい、嘉永3年5月12日 (旧暦)(1850年6月21日)- 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の化学者、薬学者。
愛知県名古屋市出身。尾張藩医の養子となるが、体が弱く医者を断念し化学者、薬学者の道に進む。1871年文部省による第1回ドイツ留学生を命じられ、有機化学と薬学、衛生学を学ぶ。1874年に帰国し、長与専斎文部省衛生局長の意向で東京医学校(後の東大医学部)の初代製薬学科教授に就任。25歳であった。「百科全書」の翻訳事業に参加。文部省衛生局司薬監督、東京薬場長、大阪薬場長を歴任。日本薬局方、改正日本薬局方の編纂に携わるなど、日本の薬学発展に多大な貢献をした。
1878年に9人が卒業するが、医科と薬科の処遇の差に憤慨し、下山順一郎ら3人を後継者と推薦し、退官する。以下、その経緯。
柴田は「薬律」の制定にあたり、1874年に制定された「医制」は医師は自ら薬をひさぐことを禁じるとあり、この「医薬分業」と調剤は薬剤師の権限であると強く主張したが、最後に「当分の間」という文言を附則にいれることで妥協しようとした。ところが闇討ち的に削除されてしまった。医薬兼業という日本独特の慣行が温存されることとなった。このことに憤慨した柴田は40歳の若さで退官したのである。因みに「薬剤師」という名称はこの薬律で決まったのだが、ドイツ語の翻訳は柴田の手になったものである。
1881年に薬学会が結成され、初代会頭に推薦されたが固辞。ともにドイツ留学した長井長義(日本薬学の父)を会頭、下山順一郎を副会頭に推薦し、自身は幹事となった。
柴田承桂は大立者の長与専斎の慰留を振り切って、潔く教授の地位を捨てている。そしてこの薬学会のトップになることも拒否し、同僚や弟子たちを引き上げている。地位や名誉よりも、「薬学」に発展のため尽くすことに専心したのだろう。
悲願であった医薬分業が定着するのは、実に100年以上後の平成の初頭である。
柴田承桂の長男の柴田桂太は日本初の植物生理学・生化学の講座を開いた東京帝大教授であり、日本の植生理学・生化学の水準を一気に高めている。次男の柴田雄次は化学の道に進み、東京帝大教授、名古屋帝大理学部長、東京都立大学初代総長。
そして柴田桂太の長男が、東京大学教授で薬学界で目覚ましい活躍をみせた柴田承二だ。日本薬史学会の中に、柴田承二の名を冠した柴田フォーラムが今も存在している。
昨日書いた箕作阮甫の場合、「洋学の家」とされた宇田川玄真の一族もそうだが、学者の世界でも「家」の存在を感じる。「家」は近現代においては、批判の対象となったが、一方で近代化の推進力となったという面もある。