世田谷文学館「山下和美展」「セタブン大コレクション展Ⅱ」。「遅咲き偉人伝」の収録「公文公」「山口洋子」。

猛暑の中、思い立って世田谷文学館を訪問。

漫画家・山下和美展。父をモデルにした「天才 柳沢教授の生活」を手入れたかったが、売っていなかったのは残念。

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「セタブン大コレクション展Ⅱ」は、世田谷文学館(セタブン)所蔵のコレクション展だ。Ⅰ期・Ⅱ期とあわせた図録を購入。

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ユーチューブ「遅咲き人伝」は。公文公山口洋子

公文公(1914-1995年)は高知の土佐中学、高知高校を経て、大阪帝国大学理学部数学科の第1期生となった。卒業後、郷里高知の高校の数学の教師となる息子の毅に夕食前に自分でつくった数学の教材を小学2年生から解かせ、帰宅後採点し、翌日の問題をつ来るという作業を毎日実行する。6年生では高校の微分積分を終了してしまう。この教材を近所に分けたのが、公文式の始まりだ。創業は1958年で、44歳の時である。55歳まで33年間の教師生活を送るのだが、1952年には禎子夫人の実家のある大阪の高校に移る。公文式教育研究所となった。

「十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人」とは人口に膾炙した言葉だが、それは教育の失敗だと公文は言う。その原因は、教材の問題であり、指導法の間違いであり、指導者の責任である。子供自身の能力のせいにせずに、方法論に徹底的に着目したところが、公文式が教育界を席巻したポイントだろう。

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山口 洋子(やまぐち ようこ、1937年5月10日 - 2014年9月6日)は、日本著作家作詞家。高校を1年で中退。16歳で競輪にはまり込む。名古屋でクラブを任された。1957年東映ニューフェイス4期生となる。2年で女優をあきらめ、19歳で東京・銀座でクラブ「姫」を開店。各界著名人を顧客として抱え、経営に手腕を発揮し、「姫」は伝説のクラブになった。マダムはバンドマスターのようなもので、統率のために人を眺めつづけた。究極の人間のふれあいの場所を体当たりで生きていく。それが作詞と小説の材料になったと「NHK人物録」で語っている。

1968年頃から作詞活動を開始する。「噂の女」「よこはま・たそがれ」「ふるさと」「夜空」「うそ」「千曲川」「夢よもういちど」「雨の東京」「ブランデーグラス」「北の旅人」「アメリカ橋」などの多数のヒット作があり、特に1960年代後半から1970年代前半にかけて目覚ましい活躍をした。1973年、「夜空」でレコード大賞を受賞。作曲家平尾昌晃とのコンビはこの時代を代表するゴールデンコンビとして知られている。

1980年代、42歳からは近藤啓太郎にすすめられ、小説の創作活動も始め、1985年には『演歌の虫』、『老梅』で48歳で直木賞を受賞した。 出版点数は100冊をゆうに超える。日本音楽作家協会会長にも就任している。作詞家としてレコード大賞、小説家として直木賞、という快挙は、阿久悠でさえ叶わなかった勲章だ。

2000年刊行の63歳で書いた『生きててよかった 愛、孤独、不信、絶望の果てに』という自伝を読んだ。人生の機微を書いた自伝エッセイである。坂本冬美の本名デビュー、五木ひろしと中条きよしの命名者で、山口洋子は本名である。酒場を切り盛りし、演歌の詩を書き、人を小説で描く、そういう山口洋子は男と女の生態をみる眼が鋭い。

クラブの経営者、作詞家、小説家と年齢を重ねるごとに、咲いた花が大輪になっていく人生であった。

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「名言との対話」7月31日。柳田国男「お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」。

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年明治8年)7月31日 - 1962年昭和37年)8月8日)は、日本民俗学者。

柳田国男は、東大法科を出て農商務省農務局に入り、全国の農山村を歩く。1923年の関東大震災を契機に本筋の学問のために起つ決意をし、貴族院書記官長を44歳で辞任した。そして1945年の敗戦にあたって、固有信仰を明らかにすることによって、日本人の文化的アイデンティティの拠り所を再確認しようとする。柳田は民間伝承の学問を「一国民俗学」と呼び、「自らを知る」学問と規定した。

還暦を迎えた柳田国男は、「還暦祝賀会は呑気な江戸の町人隠居のやること」であり、お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」と弟子たちにはっぱをかけている。柳田は立ち止まることを潔しよしとはしない。日本民俗学の組織化と体系化を独学と独力で行い「柳田学」を確立した。1951年に文化勲章を受章している

柳田の著作は膨大だが、もっとも有名なのは『遠野物語』だろう。「100分で名著ブックス」の石井正己『柳田国男 遠野物語』を読んだ。

神隠しに遭いやすい気質であると自身も認めている33歳の柳田は遠野出身の22歳の佐々木喜善と出会い、遠野に口承で伝えられている数々の物語を聴く。遠野は典型的な「小盆地」で、縄文から近現代までの時間が凝縮されていた。佐々木の語りの中では、山の神、里の神、家の神、天狗、山男、山女、河童、幽霊、まぼろし、狼、熊、狐、鳥などが頻繁に登場する。

柳田は翌日から聞き書きをもとにまとめはじめた。『遠野物語』では「其日は風の烈しく吹く日なりき」などと、伝文体の「けり」ではなく、「き」を使っている。本当に見てきたことなのだと読者に思わせる文体であり、読者を物語の中にいざなう力があった。
遠野物語』初版は350部限定の自費出版だった。友人の島崎藤村田山花袋 は、旅人の趣味的な著作にすぎないと批判したが、芥川龍之介泉鏡花は高く評価している。
柳田国男の影響受けた梅棹忠夫は、還暦記念として比較文明学シンポジウム「文明学の構築のために」を開き、「生態系から文明系へ」という基調講演を行っている。

「人物記念館の旅」や「名言の対話」を続けてきて、梅棹忠夫大山康晴など偉大な業績を残した先達たちの共通項は、お祝い、褒賞などに惑わされずに、機会を捉えて自らのテーマに邁進していることだと思う。還暦にあたって、弟子たちの申し出に「お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」と答えた柳田国男の姿勢と心意気を継承していきたい。