原尻淳一さんの「知図展」を訪問ーー知のフロンティアの可能性を感じる企画展。

東京立川で開催中の原尻淳一さんの「知図展」を訪問した。サブタイトルは、「面白がり屋が、自由に描いた知の世界」。

日々の生活の中で不思議の種を発見し、それらを観察して記録したノートを「知図」と呼んでいる。自分の眼で見たものを大事にする梅棹忠夫の学びを引き継ごうとする原尻さんを中心とする人たちの記録である。10月に京都の梅棹忠夫旧邸 ロンドクレアントで行った知図の展覧会の作品がそのまま展示されている。

  • 不思議の種の集積。ワタシの好奇心のカケラ。自分の足。観察。五感。一次情報。出逢いのアーカイブセンス・オブ・ワンダー。足下に泉あり。
  • 観察スケッチ図(事実・事象)。情報分布図(つながり)。「あ」の6進法「あるく」「あつめる」「あらわれる」「あわせる」「あらわれる」「あらわす」。
  • 琵琶湖曼荼羅。親子曼荼羅
  • 「知図」の次。なりきり文体法。写経法「鴎外」。知図法「寅彦」。

身の回りを好奇心を持って、歩き、観察し、発見した事実や事象を記録する。その情報同士のつながりを意識して知図として描く。その知図をもとに、文章を書く。

フィールドワークを土台に、新しい知を創造していく。最後は自分で表現し、発表していく。私の提唱する図解文章法の一種だ。

「なんにもしらないことはいいことだ」とする梅棹忠夫の精神を受け継ぐ新たな「知的生産の技術」の誕生だ。総合学習、探求などの教育改革の流れの中で、このやり方は生きてくるだろう。特に、母と子など家族で一緒に学べるところがいい。この運動を推進してる人たちの熱のある説明と具体的な作品は、訪れた人たちに感銘を与えていた。面白がりながら、自分の身近のフロンティアを開拓していくことは、興奮を呼ぶのである。全国に知図の愛好家が育っているようで、大きな運動に育っていく可能性がある。原尻さんたちの動きに注目!

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梅棹忠夫先生の偉業を継ごうとする一人だ。NPO法人知的生産の技術研究会でもセミナーをお願いしたい。

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本を書いていた原尻淳一さんとリアルで出会ったのは2010年の『知の現場』の出版パーティだった。当時はまだ30代後半だった。あれから10年以上たって、50歳になっていた。
2013年に都市と都市をつなぐインターシティメディア「BUAISO」の「図解思考が自らの未来を救う」だ特集で一緒に紹介されたことがある。

「学ぶ姿勢は重要だが、果たしてその方向性は、自分のキャリアにとって正しいものだろうか。自分がすべきことは、自分が見えてこそ分かるもの、どうすれば自分が見えるのか。その有用な方法はどうやら「図」らしい。「図」を使って「自ら」を考える書籍2冊が同時期に発売された。その著者たちに話を聞いた。」という枕がついている。

紹介されているのは、「30代からの人生戦略は「図」で考える」(久恒啓一)と「「キャリア未来地図」の描き方」(原尻淳一・千葉智之)の2冊。

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朝9時から10時はヨガ教室に出席。なんとかでてきてはいるが、ポーズの名前、そして骨や筋肉の動きも知りたいと、本を注文。

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「名言との対話」11月26日。野村かつ子「戦うところから何かが生まれる」

野村 かつ子(のむら かつこ、1910年11月26日 - 2010年8月21日)は、生活協同組合の組織など、消費者運動に取り組んだ日本社会運動家。享年99。

京都市西陣出身。同志社女子専門学校で学ぶ。在学中に結婚し、卒業後に二人の子をもうける。夫の野村治一葉1937年に亡くなってる。同志社大学では社会事業と倫理学を学び、賀川豊彦らの薫陶を受ける。1942年に卒業。

戦後に、日本生活協同組合、婦人有権者同盟に参加し、主婦連合会の創設にも参加して居る。1957年からは総評主婦の会で消費者運動を展開。1971年にはアメリカの消費者運動を牽引していたラルフ・ネーダーを招聘している。1975年、海外市民活動情報センターを設立。その後も一貫して消費者運動に関わりつづけた。

1990年に市川房江基金援助賞、1991年に東京弁護士会「人権賞」、1993年には韓国の「イルガ記念賞」を受賞している。

農業技術通信社のサイトの「農業ビジネス」に、宮崎隆典が「空腹時代の夢と満腹寺代の不安と」というコーナーで、野村かつ子のことを書いている。

戦後の空腹時代には「熱い重湯が腹にしみ、ありがたくもあり、情けなくもあり、涙が出ました」という言葉を紹介している。ハモニカ長屋と共同水場、そして衣類を売って一枚一枚皮をはぐ「タケノコ生活」を述懐している。こういった飢餓体験が消費者運動の原点にあった。

戦後はGHQへ押しかけ、食糧供給について何度も申し入れを行っている。この時、生活協同組合法の制定を示唆されて、それが生協の設立につながった。「戦うところから何かが生まれる」と野村は述べている。問題意識をもって、行動に移していくと、新しい視界が開けたり、解決のヒントが手に入ることがある。それが「何か」は事前にはわからないが、行動の後には、「何か」の像が結んでくる。その繰り返しの連続の人生だったのであろう。

野村かつ子は1999年、『消費者運動・88年の歩み』と題した自伝を発表している。当時は89歳であるが、その後も10年以上、99歳まで生きて、世界の食糧問題にも関与しているから、野村かつ子の生涯を総括すれば「消費者運動・99年」ということになるだろうか。人生10年時代を生きた先人である。