寺島実郎さんのネットワーク型世界観の三部作が完成した。2010年刊行の『大中華圏』、2017年刊行の『ユニオンジャックの矢』につづく、ユダヤを論じた『ダビデの星をみつめて』がそれである。大中華圏、大英連邦、ユダヤは、それぞれ、静的な地政学的見方ではなく、動的なネットワーク力によって繁栄しているという見方である。
まず寺島の方法論の中核である「ネットワーク型世界観」を語っている部分を中心に拾い出してみよう。「ユダヤ論」、「日本への提言」などは次回にとりあげる。次に三部作をまとめて論じることにしたい。
方法論の中核は、「文献研究とフィールドワーク」「体験」「実感」「積み上げ」「全体知」「現象の背景のストラクチャー」「定点観測」「ネットワークはつながり」「体系づけ」「歴史と地理」などである。
本書の目的。
- 半世紀以上、世界を動き回り、100か国に迫る国々を訪れてきた。、、、可能な限り、私自身が体験したことを軸に、文献研究とフィールドワークを積み上げ、世界認識を深めるうえで。「知るべきユダヤ要素」をまとめたのがこの本である。
- 三大宗教を学び直すことで、宗教民族とも呼べるユダヤ人のあり方に次第に理解を深めていくことになるのである。
- 本書は戦後日本を生きた一人の日本人としてのユダヤ論であり、ユダヤに対する「全体知」の試みである。
- この本のタイトルを『ダビデの星をみつめて』としたのも、苦難の中で頭を上げて、自らの生きるべき道をみつめ、生き抜いてきた民族を正視することから、我々自身の未来を探ろうという想いを込めたものである。
寺島実郎の方法。
- 私が行ってきた議論に個性があるとすれば、それはできるだけ、目の前で起きている現象に向き合いながら、その背景にあるストラクチャーを捉え直そうとしてきた点にあると考える。
- 私の文献研究とフィールドワークの積み上げが始まった。
- 私にとって世界認識を探る定点観測の重要なポイントになっている。
- 歴史や地域を越えながら、そのつながりを見ていくことが、ユダヤ・ネットワークの理解に欠かせない重要なポイントなのである。
- 今、必要とされているのは、そこ(一次情報)から意味を読み解き、整理して体系づけ、優先度を判断する力である。膨大な情報を体系づけ直したときに異なる意味があらわれ、自分たちの進路が見えてくる。ビッグ・テックの行っている膨大なデータの集積と分析は。すなわちデータリズムによる情報優位性をめぐる戦いなのである。情報を深化させ、課題解決に昇華させる力は、今日に生きる一人ひとりにとっても重要であることを感じるのである。
- 私も「情報」の世界を生きた人間だが、「専門知」に傾斜しがちなプロの世界の中で、如何にして「全体知」の中で軽重判断をするのか、そのことの大切さをかみしめてきた。
ネットワーク型世界観「三部作」を終えて。
- ネットワーク、つまり「つながり」の中で世界を考察することの大切さをこの三部作に示してきた。これこそが、私が世界を動いて実感したことだからである。
- 地球儀ではなく、メルカトール図法で描かれた世界地図に国家を配して、「国際関係」を捉えることには限界があるのだ。より的確な世界認識を持つための座標軸として、民族のネットワーク力が重要で、その典型として「大中華圏」、「大英連邦」、そして「ユダヤ・ネットワーク」を取り上げてきた。
- 私自身の体験を通じた実感と、文献研究の積み上げの中から、三部作としての書物になったもので、柔らかい世界認識を探る人たちの参考に供したい。
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「名言との対話」1月4日。福地源一郎(桜痴)「こんな時代になると、新聞は困るぞ」
福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の幕末の幕臣。明治時代の政論家・劇作家・小説家。
長崎市出身。長崎で漢学、蘭学を学ぶ。江戸に出て英学・英語を学び幕府で翻訳に従事する。1860年の万延元年の文久遣欧使節、1865年にも幕府施設として渡欧。
1868年の維新時には「江湖新聞」を創刊。1869年には「日新舎」という洋学校を設立。福沢諭吉の慶應義塾、中村敬宇の同人社と並び、東京の三大学塾と称された。
1870年に大蔵省に入り、アメリカへ渡航。岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ、ヨーロッパ、さらにトルコも視察。1874年、東京日日新聞に主筆として入社し、後に社長。「社説」をはじめて登場させた。西南戦争では従軍記者として活躍する。1878年、東京府議会議員となり議長。1882年、立憲帝政党を結成、翌年に解党。
次第に演劇改良運動に入っていく。経済、政治、風刺、ロマンス小説も書く。歴史家として『幕府衰亡論』を著す。歌舞伎座を開場し、後に座付作者となる。渋沢栄一からの依頼された『徳川慶喜公傳』は完結はできなった。1904年、衆議院議員。在職中に死去。享年66。
源一郎は興味にまかせてさまざまの仕事をしているが、本質はジャーナリストであったと思う。長崎出島のオランダ商館長の提出する「オランダ風説書」の筆記を手伝い、西洋に新聞があることを知る。文久の欧州派遣時にはロンドンで新聞社を訪ね、フランスでは観劇に関心を持った。
1885年に『今日新聞』(現「東京新聞」)い各界を代表する人物の投票結果で、「日本十傑」が載っている。10位が榎本武揚、6位が中村正直、5位が渋沢栄一、4位が鳩山和夫、3位が伊藤博文、そして2位が福地源一郎、1位は福沢諭吉であった。当時は、福沢と並んで「天下の双福」と称されたほどの人物だった。ソサイエチーに「社会」というルビをふったり、バンクを銀行と訳したいわれる。福沢は学校と新聞に狙いを定めて、後世に大きな影響を与えたが、桜痴は才能は福沢にも劣らないが、あらゆる分野を横に歩いて大事を為すことはできなかった。才能のままに世を渡ったのである。
エジソンが発明した「蓄音機」で、日本で初めて肉声を吹き込んだのは東京日日新聞社長の桜痴だった。そのとき、「こんな時代になると、新聞は困るぞ」と発言してる。音声のラジオ、映像のテレビと時代が移り、紙の新聞の危機を予言している。
桜痴という筆名は、吉原通いに狂ったときに、ひいきの櫻路に因んでつけたものだ。政治家、戯作者、事業家、小説家、新聞人と興味のままにそれぞれの分野で活躍する異才であった。また渋沢栄一、伊藤博文、木戸孝允など政界、実業界の大人物にも重宝がられている。福地源一郎桜痴、この人の本質は、ジャーナリストだったと思う。新しいことにすぐに飛びつくが、持続力に欠ける体質である。
参考
「たびながコラム」「国史大辞典」