寺島実郎の「世界を知る力・対談篇」:「日米中の現状と未来」

22日に東京MXテレビの寺島実郎の「世界を知る力」対談篇をエムキャスでみた。

渡部恒雄さん、カリュウさんとの定期対談だ。日米中のトライアングルの定点観測。

以下、要旨。

寺島:「ニューズウイーク」は「中国革命2023?」特集。「フォーリンアフェアーズ」は「レッドチャイナへの回帰」。習近平の3期体制の一極支配は安定か?トランプの影響力は?

リュウ:ゼロコロナは大成功とした。しかし経済は3%にダウン、出業率は急上昇。コロナの大量死で大混乱。日本、韓国への対応も疑問がある。権力が集中すると権力者は不安になるというパラドックス、罠。信用できなくなる、ブレーキがきかなくなる。ジャック・マー(日本在住)のアリババは、シンガポールを拠点に新しい華僑ネットワークをつくろうとしている。

渡部:アメリ中間選挙後、下院議長選で共和党の一部の強硬派の支持を得ないと何もできないことがわかった。マッカーシー議長は弱い議長になった。大統領選にトランプがでてきてもおかしくなう状況。

寺島:ウクライナ問題。アメリカはNATOとロシアの直接対決にしたくない。中国はロシア支援に慎重。今年は停戦の方向か。台湾問題の単純ではない。日本の防衛費増による反撃能力は相手にもその権利がある。台湾の国軍(蒋介石の国民党が創設)には国民党の影響力もある。米の最先端武器の提供は中国に抜ける可能性も。日本はイスラエルをみならって、やっかいな同盟国に。国連アジア太平洋本部を沖縄に、尖閣の領有権の明示などの構想? 

リュウ:中国の戦狼外交に変化。新外相はハト派、報道官も交代。中国はアメリカとの関係を良くしたい。経済が重要。半導体スパコンなど出遅れる危機感。ロシアとは慎重に対応。台湾有事は今はない。あるとしたら2027年、習近平政権が4期目に入るころに危機があるかもしれない。「構想力」「先見力」は重要だが、日本は根回し力が弱い。米中の説得が必要。

渡部:ウクライナへの肩入れは長く続けたくはない、白紙小切手は切らない(マッカーシー)。CIA長官はロシアの相方とは会っている。世界はウクライナと台湾をリンクして考えている。プーチンはインドのモディ首相の批判はショック。台湾危機はゆっくり来る。統一は国是であるが長期課題。そうさせない戦略が重要。日本は、非核、そして購入するミサイルは性能が悪く怖くないからうまいやり方だ。日本は最低限の防衛力を持つことになる。今回の日米首脳会談で日本は日本自身で守ることになったと思う。二つの提案は全面賛成する。今回の防衛3文書には、東南アジアへの支援、装備品移転などが入っている。これをアメリカべttらいとみるか、自由度が増すとみるか、二つの見方がある。

寺島:日米関係の現実をみるいこと。日本の負担(16兆円)、地位協定、米軍基地の7割阿沖縄、、。事実、ファクトをもとにした大人の議論が重要だ。

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朝、寺島さんから電話あり。「世界を知る力」の聞き逃し配信は810万回。大みそかの紅白の時間に3万人がエムキャスをみていた。以上の情報。こちらは近況報告。

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「名言との対話」1月24日。新島襄男児志を決して千里に馳す 自ら辛苦を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故国の花」

新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima1843年2月12日天保14年1月14日) - 1890年明治23年)1月23日)は、キリスト教教育者である。同志社大学創立者

2012年に群馬県安中の新島襄旧邸を訪問した。その時の寄稿文をもとに、新島を語りたい。

元服後、アメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。
21歳の時に函館から出航しアメリカに渡る。私は函館の港で「新島襄出航の地」という碑を見たことがある。また京都の同志社大学のNiijima Roomという名前の記念室を訪問したこともある。

新島が渡米した1864年当時はまだ幕末で騒然とはしていたが、まだ鎖国が継続中であり、見つかれば死罪という冒険だったのだ。フィリップス高校、アーマスト大学、アンドーヴァー神学校と勉強を重ね、滞米10年を経て、新島は1974年に横浜に到着する。28歳の時には、ワシントン駐在の森有礼(1847年生まれ)とボストンで会い、留学生という形にしてもらっている。日本で休暇をもらった新島は故郷に帰り、家族のいるこの家に29日間滞在する。この間、キリスト教を語り、この安中は上州伝道の礎石となるのである。家の裏に詩碑「十二の石塚」があり、湯浅半月の詩が刻まれている。題字は新島とも縁の深い徳富蘇峰1863年生まれ)だった。

キリスト教の大学を創ることを志とした新島は、32歳の時に同志社英学校を開校する。最初の出発は8人の生徒だった。そして33歳の時に、友人となった会津出身の山本覚馬京都府会初代議長)の妹・山本八重と結婚する。この八重は戊辰戦争に従軍した女丈夫(おんなますらお)であり、NHK大河ドラマの主人公になった女性である。八重は会津若松城の落城の歌を詠んでいる。「明日の世は何国の誰か眺むらんなれしを城に残す月影。「のぼる、八重さん」と呼び合った二人は西洋スタイルの生活を送る。新島は家事にも協力的だった。

1883年に開催された第三回全国基督教徒大親睦会の集合写真に、新島襄と内村鑑が隣同士で並んでいる珍しい姿を発見した。この写真には津田仙の熊本バンド、韓国の李樹延などのメンバーがみえる。この二人は同年齢にみえたが、実際は新島40歳、内村22歳だった。

「いしかねも透れかしと一筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地」

「良心の全身に充満したる丈夫の起り来たらん事を」(良心碑:同志社大学今出校地)

「時危思偉人」(時危うして偉人を思う)
「偉人とは一国の良心ともいうべき人。良心を手腕に運用する人物」。

「天を怨みず、人を咎めず」。

「腹の立ったときに、小言をいうな」。

アメリカ人の言葉に『時は金なり』とありますが、むしろ『時は金よりも尊し』と述べたい」。

男児志を決して千里に馳す 自ら辛苦を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故国の花」、これがアメリカで新島襄が書いている志である。

新島が1864年鎖国の禁をおかして函館港からアメリカへ密航したのだが、ちょうど南北戦争が終わった年(1865年)にボストンに到着。そして勉学と苦難のうえに、1875年に同志社英学校を設立するが、これは明治8年だ。明治元年は1868年、明治4年に新橋横浜間の鉄道が開通、明治5年にに富岡製糸場の開場、という事実をみると、明治の近代化のスピードの凄まじさを感じる。こういった時代の転換期に生きた一人の日本人青年の高い志と、その強さに感銘を受ける。学校をつくることが最も後世に影響を与えると思う。新島襄の場合は、神の如くあがめていた徳富蘇峰(猪一郎)、「民本主義」の吉野作造、新島から洗礼を受けた安倍磯雄、桜美林大学創立者清水安三などが思い浮かぶ。学校は創立の学祖と建学の精神が重要なのだ。そういう意味で、同志社創立者の為した事業は「偉業」である。