永六輔監修『八月十五日の日記』。午後は川崎でミニ同窓会。

1941年12月8日に真珠湾攻撃。その3年8か月後の1945年8月15日にポツダム宣言受諾の詔書がラジオで全国民に向けて昭和天皇の肉声で発表された。

「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」。

8月15日は敗戦の日である。その日の日記に日本人は何を書いたか。永六輔監修『八月十五日の日記』(講談社)はそれを追った本。読了。

  • 三好十郎「ただ泣いた。何も考へられず」。芦田均「私は危うく泣出さむとして声を飲んだ」。海野十三「いっさい決まる。恐懼の至り也。ただ無念」。折口信夫「戦ひに果てしわが子も聴けと思ふかなしき御詔に涕かみたり」。峠三吉「ただ情けなく口惜しき思いに堪えず」。斎藤茂吉「嗚、しかれども吾等臣民は七生奉公としてこの怨み、この辱しめを挽回せむことを誓ひたてまつったのであった」。真崎甚三郎「大詔勅賜はる前に他の策を尽すすへもなからさりしや」。佐々木信綱「なげきあまり熱にたふれし耳の辺に人間ならぬ嗚咽の声す」
  • 川田順「何事も吾等は耐へむ日の本にすめらみことの在ますかぎりは」」。細川護貞「文字通り一億泣く」。柳田国男「感激不止」。野口富士夫「私はこみ上げてくる嬉しさを抑えるために兵舎を出て、、、、日本が敗れたということよりも、もっぱら戦争が終わったという事実の方にかかっていた、、、」。山田風太郎「百年後のためのひそやかな第一歩を踏み出す者は、生き残ったわれわれを置いて誰があろうか、、、最大の敗因は科学であり、さらに科学教育の不手際であったことを知る」。大川周明「わが四十年の興亜の努力も水泡に帰す」
  • 森田草平「これでもう飛行機の心配はない」。、、今日からは俺が平和の戦争をしなければならない」。小林一三「聖旨を奉じて国運を将来に開拓することこそ一億国民の義務であり祈願するところである」。堀越二郎「日本に壊滅をもたらした政策を指導して来た者が全部去らなければ、腐敗の種は残る」。堀口大学「いくさ人おほ「まつりごとわたくしし国を亡ぼす憎むべきかな」。玉川一郎「戦争中は生産の隘路となり、敗戦後には盗賊となりたる汝等を今後あらゆる方法により筆誅を加ふべし」。福原麟太郎「新しき日本のために研究精進を約す」。
  • 中勘助「戦争は終わった」。壺井繁治「戦争という重たい荷物をやっと肩からおろしたという消極的な解放感であった」。植草甚一「戦争終了しても思ふようには行くまい」。徳永直「ああ、それにしても今夜からゆっくりねむられる」。
  • 高浜虚子「秋蝉も泣き蓑虫を泣くのみぞ」。長与善郎「でかした鈴木!(鈴木貫太郎) 日本も思ったほど馬鹿ではなかったと見える。また忠臣賢臣もゐたのだ」。荻原井泉水「おん言葉神の、いなずまの身内貫くや」。永井荷風「休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。徳川夢声「口元で精神のみふりかざしていた日本の指導者たちは浅慮の徒であった。
  • 亀井勝一郎「日本は大丈夫なり、の感を強くす。、、日本は一切を失って一切を得たり。世界に冠絶する宗教国家、芸術国家として再生すべし、勇気を以て直に出発すべきなり」。武者小路実篤「今後うんといい日本画生まれることも希望できる」。久保田万太郎「何もかもあっけらかんと西日中」。河上肇「あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ」。加藤シズエ「拠ろ来いと解放感が全身をよぎった」。富塚清「わが科学敗れたり」。阿部次郎「覚悟既にあり、直ちに立つことを思ふ。、、武力と資本力との背景を恃まぬ文化国家建設の召命世界最初に日本に下る」。古谷綱武「働かう」。

 

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「ともだちの家」でミニ同窓会。JAL時代の浅山、犬山の両氏と。f:id:k-hisatune:20231208202015j:image
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「名言との対話」12月8日。山本権兵衛「功労者は勲章をやればいいのです。実務につけると、百害を生じます」

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ / やまもと ごんのひょうえ[4][5][6]、旧字体山本 權兵衞 1852年11月26日〈嘉永5年10月15日〉- 1933年〈昭和8年〉12月8 )は、日本海軍軍人政治家。

鹿児島出身。少年時代に薩英戦争、戊辰戦争に従軍。維新後に昌平校、開成所で学んだ後、海軍兵学寮を卒業。1895年、海軍少将として海軍軍務局長。1898年、47歳で第2次山県有朋内閣の海軍大臣となり、伊藤博文桂太郎内閣でも留任し8年つとめ、日露戦争を勝利に導いた。

1913年、政友会の支援を得て内閣総理大臣に就任。軍部大臣武官制の廃止などを行った。翌年海軍高官汚職シーメンス事件で総辞職。1923年9月関東大震災のさなかに第2次内閣を組織し、復興院総裁に後藤新平をあて、大森房吉東大教授の献策を得て復旧ではなく復興をテーマとして震災後の復興処理にあたる。虎の門事件の責任をとって総辞職した。陸の長州、海の薩摩とされる薩摩閥の中心的人物であった。

この人の本名は「ごんべえ」では体裁が悪いと、「ごんのひょうえ」と呼ばせた。

軍務局長時代には海軍の近代化のため、大リストラも断行、士官の海外留学を奨励、秋山真之などはこの恩恵を受けて成長している。そして陸軍参謀本部の中にあった海軍軍令部の独立を10年かけて実現し、海軍を陸軍と同等の地位に引き上げた。

日露戦争にあたり、運がいいという理由で東郷平八郎連合艦隊司令長官に任命し、その結果ロシアのバルチック艦隊を撃破している。この時の作戦参謀が秋山真之であった。

私はを描いた江藤淳『海は甦る』を読んでいる。当時の江藤のエッセイを思いだす。山本権兵衛を題材にしたこの歴史小説の連載をしていた頃、山手線の車内で品のいい紳士が「文芸春秋」の、その連載を読み始めたというエッセイを書いていた。山手線に乗って座ったら向い側の紳士が熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、そのまま食い入るようにその紳士の表情と目線を追い、その姿と表情ををじっと感動を持って眺め続け、声をかけることができなかったことを悔いていた。

福沢諭吉については「自慢話や成功談はせずにやり損ないの話ばかりする。ここが偉い」と感心したと山本権兵衛が語ったいうエピソードもある。

「東郷は、運の良い男でございますから、しかるに、必ずや勝利致しましょう。」

「後世、日本海海戦が神秘的な力で勝ったように思われては、日本の運命が危ぶまれる。 」

「東京を復興するの努力如何は世界列強の環視する所、我が邦の実力如何を知るの試金石、またここに在り。」

以上に見るように、山本にはそれぞれ、歴史を紡いだ名言がある。最重要人事、戦争勝利の要因、大震災からの復興の意義など、眼光炯々として虎の目を持つといわれた山本権兵衛の目は、深い洞察に満ちている。

功労と役職との関係は、常に難しい人事上の大テーマだ。功労があるからといって、難題の解決を期待される地位や仕事を与えると問題が生じることがよくある。危急存亡の時にあたては、過去の功績に対しては賞賛や報酬で報えばよいという決断をする場合もある。国家や組織の命運を賭ける地位には私情を捨てて非情になって、慣例にとらわれず、最高の適材をあてなければ成功を手にすることはできない。山本権兵衛という人物を得たのは明治の日本にとって、幸運だった。