聞く。読む。観る。詠む。歩く。撮る。

聞く

 

読む

  • 橋本大也「アナロジア」(「監修者解説」を読了)
  • AI著・ジェームス・スキナー監修「AIが書いたAIについての本」(著者がAIなので384頁という厚さなのに880円という低価格。3月22発行。AIは世界のすべてを変えていく!)

観る

詠む

  • 「川柳松戸」が到着(454号。4題「使う」「時時」「トーン」「つれない」二人選三句詠。4句が5つ採られた)
  • 「五十肩昔はたしか四十肩」「冷やメシも喰い方ありと人の言う」「成仏を逃した人の未練顔」「異次元って最低限のことですか」

歩く

  • 本日は1万2千歩(過去7日間の平均は7600歩)

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「名言との対話」5月24日、平塚らいてう「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である」

平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年明治19年〉2月10日 - 1971年〈昭和46年〉5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。

東京生まれ。東京女子高等師範附属高等女学校(お茶の水女学校)卒業。20歳、日本女子大卒業。21歳、閨秀文学会に参加し講師の森田草平と出会う。22歳、恋人となった森田と死の旅に出るが捜索隊に発見される。(塩原事件)。25歳、「らいてう」のペンネームで『青靴』に「原始、女性は太陽であった」を執筆。26歳、後に夫となる奥村博史と出会う。28歳、共同生活。29歳、長女誕生。31歳、長男誕生。32歳、与謝野晶子と「母性保護論争」。34歳、市川房江らと新婦人協会を結成。37歳、関東大震災。39歳、博史は成城学園の美術教員。43歳、消費組合「我等の家」理事長。47歳、『雲・草・人』を刊行。55歳、婚姻届け、奥村姓となる。59歳、敗戦。61歳、息子夫婦、孫と同居。64歳、ダレス米国務省顧問に「非武装国日本女性の講和問題についての希望要綱」を手渡す。67歳、日本婦人団体連合を結成し会長。国際民主婦人連盟副会長。68歳、世界母親大会開催。69歳、「世界平和アピール七人委員会」に参加し、湯川秀樹らと行動。80歳、ベトナム戦争反対運動。85歳、死去。(奥村直史『平塚らいてう』(平凡社)の「関連年表」から作成)

凄まじい行動力である。

夏目漱石の生涯を追っていると、弟子の森田草平の塩原事件がでてくる。草平はその心中未遂事件を『煤煙』という小説に書いている。その相手は若き平塚らいてうであったことをはじめて知った。

「子供を産み育てることは、社会的・国家的性質を持つものであるから、女性が子供を育てている期間、国家の保護を求めるのは必要なことである」「女性は母性であるが故に保護されるべきである」とする平塚らいてうに対して、与謝野晶子は「国家に寄食する依頼主義である」「男女は対等な関係」として批判した。「母性保護論争」として有名だ。今日にも通じる問題である。

らいてうは「鳴神や、仁王の臍の紙礫(かみつぶて)」という豪快な俳句も詠んでいる。雷が鳴っている。力強い仁王の裸体にその稲妻が落ちるごとくに。そういう意味だろうか。鳴神やの後に、句読点を打つなど奔放な句風である。

市川房江は、平塚との初対面の印象を「物静かな美人で、この人が『新しい女』なのかとびっくりしたのでした」と記している。らいてうは、身長は145センチであり、当時の平均身長147センチよりも低かった。

奥村直史『平塚らいてう』(平凡社)をkindleで呼んだ。この人は一緒に住んだ平塚らいてうの孫だ。孫から見た5歳ほど年下の絵描きの奥村博史との共同生活、結婚の様子が描かれていて興味深い。長男の直史の嫁が生活全般の世話をしてくれたようで、理想の主婦と感謝している。子どもを生んだことを実によかったと回想している。

『青靴』に書いた冒頭の「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」は日本女性近代史を飾るトップ級の名言である。女性を語るとき、「原始、女性は実に太陽であった」ほど有名な言葉はないのではないか。日本史において、平安以前は女系家族であり、女帝が多くその官僚としての女官の存在など、まさに女の時代であったともいえる。女を太陽にたとえるなど、この言葉には強い力がみなぎっている。平塚らいてうのメッセージ力は、群を抜いている。それは弱冠25歳のときの言葉である。その前も、その後の60年にわたる長い生涯においても、全力疾走したことがわかった。