AI「chat野郎」と遊ぶ。

chatGPTとBingで遊ぶ。橘川幸夫さんにならって、擬人化して「chat野郎」とよぶことにしよう。

プラグインのいくつかを試す。プロンプトで、要約、翻訳、イラスト作成などを指示。

東京から大阪へ新幹線で向かうビジネスマン with 富士山 in the background大いなる晩年、という本の表紙デザイン

以下を遊ぶ:ユーチュブ番組「遅咲き偉人伝」の解説。新型コロナ。ブログ「今日も生涯の一日なり」の解説。大谷翔平の最新情報。「大いなる晩年」という本を書くという前提でキーワードのブレスト。「はじめに」はAIが書いた文章を土台に、和田秀樹風、樋口裕一風、夏目漱石風に変換。目次の作成。「サピエンス全史」の要約。新幹線で大阪へ向かうビジネスマンのイラスト。大いなる晩年の本の表紙デザイン。マルチモーダルの説明。教師の役割。松下村塾の教育。ライフワークの実例。サラリーマンのライフワークの実例。、、、、

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以下、chat野郎の作品をいくつかを例示。

久恒啓一さんのブログ「今日も生涯の一日なり」は、楽天ブログにて公開されているブログです。久恒さんは「図で考える人は仕事ができる」(日本経済新聞社)の著者で、このブログでは毎日、様々なトピックについて書き続けています。ブログのタイトルは、福沢諭吉の言葉「今日も生涯の一日なり」から取られており、2004年以来毎日更新し続けているとのことです。ブログは2021年に連続記入6000日を超えています。出典

久恒さんは図解Web、メルマガ、ブログの組み合わせにチャレンジしており、その日々の活動や思考をブログに綴っています。読者は気軽に訪れて、久恒さんの視点や考え方を共有することができます。

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YouTubeのビデオ「大器晩成の人の特徴!遅咲きな人の性格とは?【チャンネルダイス】音声付き」は、人生の後半で成功を収める「遅咲き」の人々の特性について語っています。以下にビデオの要約を示します:(「遅咲き偉人伝」を聞いたが、違うものが出てきたか)

地道で努力家:遅咲きの人々は、一生懸命で地道な努力家である傾向があります。彼らは成功は日々の努力の積み重ねから来ると理解しており、必要な努力を惜しまないでしょう。

常に知識を求める:成功を収めるためには、それなりの知識量が必要です。遅咲きの人々は学ぶことを楽しみ、常に新しい情報を求めています。

忍耐強く、精神的に強い:遅咲きの人々は忍耐強く、精神的に強いです。何度失敗しても、学びながら何度でも挑戦を続けることができます。

好奇心旺盛:遅咲きの人々はよく好奇心旺盛で、学びたがる傾向があります。新しい情報に敏感で、常に新しい知識を得るためのアンテナを張っています。

積極的:遅咲きの人々は積極的で、自分の人生に関わる全ての事柄に積極的に取り組むことができます。この積極的な態度は、周囲にも良い影響を与えることが多いでしょう。

ビデオは、成功への道は一概には定められないと強調し、視聴者に自分自身のペースで目標に向かって努力することを勧めています。

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文体の変換、これは凄い。

AI執筆の「はじめに」:「大いなる晩年」へようこそ。この本は、人生の後半期を迎えるすべての人々に向けたガイドブックです。私たちは、人生のこの段階が、新たな冒険、学び、そして成長の時期であると信じています。この本を通じて、読者の皆様が自身の晩年を最大限に活用し、充実した時間を過ごすためのヒントとインスピレーションを得られることを願っています。

和田秀樹風:「大いなる晩年」への道のりは、それ自体が心の旅です。この本は、その旅のガイドとなることを目指しています。人生の後半期は、新たな自己理解と成長の機会を提供します。それは、自己と他者、そして世界との関係性を再評価し、再定義する時期でもあります。

樋口裕一風:「大いなる晩年」への道のりは、それ自体が戦略的な挑戦です。この本は、その挑戦を成功に導くための戦略ガイドとなることを目指しています。人生の後半期は、新たな目標を設定し、新たな戦略を立案し、新たな行動を起こす機会を提供します。

夏目漱石風:「大いなる晩年」への道のりは、それ自体が人生の詩であり、哲学であります。この本は、その詩と哲学のガイドとなることを目指しています。人生の後半期は、新たな自己理解と成長の機会を提供します。それは、自己と他者、そして世界との関係性を再評価し、再定義する時期です。

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 「名言との対話」5月23日。美濃部達吉「学ぶ者は山に登るがごとし」

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年明治6年)5月7日 - 1948年昭和23年)5月23日)は、日本法学者憲法学者政治家東京帝国大学教授。享年75。

兵庫県高砂市出身。兄・俊吉は後の朝鮮銀行総裁。達吉は帝大法科を卒業後、内務省に入省するが性にあわず2年で大学に戻る。ヨーロッパ留学後、1902年に29歳で教授。39歳、『憲法講話』を刊行、天皇機関説論争が起こる。護憲運動を支持。1931年、満州事変勃発、軍部批判を展開。1932年、貴族院議員。1932年、滝川事件を批判。1934年大学を退官。1935年、貴族院天皇機関説が批判される。不敬罪で告発される。主著が発禁処分。議員辞職。1946年、枢密院顧問。

因みに、美濃部達吉菊地大麓の長女の母との間に生まれた長男が美濃部亮吉だ。1971年から1979年まで2期8年東京都知事をつとめた人である。また門上千恵子は女子に門戸を開いていた九州帝国大学法文学部に入学する。初代学部長は美濃部達吉であった。

明治憲法専制君主が主であり、立憲君主が従であるの二つの側面を持っていた。建前は専制天皇だが、実際は藩閥軍閥、政党、官僚や陸軍らが担い、元老が調整役を果たしていた。旧制高校などの高等教育を受けた指導層には立憲君主制を教えたのである。それは密教と呼ばれた。

明治憲法のその二重構造の枠組みの中で議会・政党を中心とする政治の正当性を論理的に説明したのが、天皇機関説である。国家は法人であり、主権は天皇個人にはなく、憲法の範囲内で主権の行使に携わる制限君主とした。実際の政治は内閣に施政の主導権があり、天皇は政治に積極的に関与すべきではないとした。日本は古来から国政にあたらなかったことで世界無比の尊厳を保持しえたと美濃部は述べている。

吉野作造は5歳の年下だった。美濃部は法律、民政主義。吉野は政治、民本主義1912年天皇機関説を、吉野作造が1916年に政治学上にあらわした思想が民本主義である。 大正デモクラシーは、1912年(大正元年)―1926年(大正15年)をいうが、広くは1904年(日露戦争)から1931年(満州事変勃発)までをいう場合もある。二人は大正デモクラシーの先導者だった。

昭和天皇自身は、国家主権の方がよいと思う、ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいと語ったというから、天皇機関説に近かったと、後に鈴木貫太郎侍従長が述べている。

さて、そういう本物の学者であった美濃部達吉は、「学ぶ者は山にのぼるがごとし」という名言を残している。高い山を、一歩一歩登っていったのであろう。もって銘すべし。