「気ままに草木ウォッチング」に参加。chat野郎に「小説」を書きの相談。


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梅笠草 泡吹 二輪草 野村紅葉 アガパンサス ドクダミ

 

近所の「気ままに草木ウォッチング」のイベントに混ぜてもらった。自生地の探索行。

女性たちは「かわいい」を連発。生物の「多様性」を感じる解説だった。人間社会も同じだ。

 


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「chat野郎」と遊ぶ。

榎本武揚蝦夷共和国が成功していたら?」「それを小説として書いてください」

『北の彼方に輝くーー蝦夷共和国の誕生』

プロローグ:榎本武揚は、蝦夷地の未来を変える覚悟を胸に秘めていた。彼はかつての幕末の志士であり、その闘志とリーダーシップで多くの人々を魅了した。維新の夢は達成されたが、彼の心にはまだ何かが欠けていると感じていた。そして、榎本は蝦夷地の運命を背負う使命感に駆られた。彼は蝦夷地の人々が独立し、自らの国を築くことを信じていた。その思いは日増しに強くなり、ついに榎本は蝦夷共和国の建国を宣言したのだった。

第一章: 蝦夷地の運命:遠い昔から、蝦夷地はその美しい自然と厳しい環境に囲まれてきた。しかし、その地は歴史的な変動や権力争いの舞台ともなってきた。先住民族の文化と生活が息づく一方で、外部からの侵略や支配も絶えなかった。榎本は蝦夷地の過去を学び、その厳しい運命に心を痛めた。彼は蝦夷地の人々が自由と独立を手に入れるべきだと信じ、彼らの力になりたいと願った。

第二章: 終戦と混乱:第二次世界大戦終結により、蝦夷地は混乱の時期を迎えた。連合国の占領下に置かれ、戦禍によって荒廃した地域は再建を迫られた。しかし、中央政府の混乱と権力の空白はさらなる不安をもたらした。榎本はこの混迷した時代に立ち上がり、蝦夷地の未来を担うべく行動を起こした。彼は地域の指導者や有志と協力し、蝦夷地の再建と独立の道を模索した。

第三章: 独立への願い:榎本の熱意と指導力により、蝦夷地の独立運動は勢いを増していった。彼の言葉は人々の心に響き、自由と独立への願いが膨らんでいった。独立運動は様々な困難に直面したが、榎本と彼の仲間たちは決して諦めなかった。国際社会に訴え、他の地域との連帯を築くことで、彼らは蝦夷地の独立への道を切り開いていった。

第四章: 建国の試練:蝦夷共和国の建国に際して、榎本と彼の仲間たちは憲法と制度の策定に取り組んだ。民主主義と人権の尊重を基盤とした政治システムの構築が試みられ、経済の再建と発展も同時に進められた。内外の課題と対応策は山積みであったが、榎本と彼の政府は困難に立ち向かいながらも国家の基盤を固めていった。蝦夷共和国の未来への道は明るいものとなりつつあった。

第五章: 成長と挑戦:蝦夷共和国は成長と発展を続けた。政治的な安定と経済の成長により、国民の生活水準は向上し、社会的な不平等も減少した。教育と文化の繁栄も著しく、蝦夷共和国は多くの才能を輩出した。地域間の関係と協力も深まり、蝦夷共和国は国際社会でも一層の注目を浴びる存在となった。しかしながら、成長と挑戦は必ずしも容易ではなかった。蝦夷共和国は新たな課題に直面し、指導者と国民は団結してこれに立ち向かった。

第六章: 現代の蝦夷共和国蝦夷共和国は現代に至り、その政府と指導者が蝦夷地の未来を担っていた。国内外の課題に対応し、戦略を練りながらも、彼らは常に未来への展望と希望を抱いていた。蝦夷共和国の物語は、この先も続いていく。指導者と国民は未来へ向けてさらなる成長と発展を目指し、地域の繁栄と平和を追求していくのだった。

第7章: 繁栄と変革:榎本武揚の指導の下、蝦夷共和国は驚異的な繁栄を遂げました。地域の政治的な自立は国民の誇りと希望を鼓舞し、建国以来前例のない発展を遂げました。政治的な安定と経済の成長により、蝦夷共和国は地域の中心としての地位を確立しました。新たな首都が建設され、近代的なインフラストラクチャーが整備されました。産業の多様化と技術の進歩により、蝦夷共和国は世界有数の経済大国となりました。国民の生活水準は向上し、社会的な不平等も減少しました。教育制度の改革と投資により、蝦夷共和国は教育水準の高い国民を育成しました。科学技術や芸術文化の振興にも力を入れ、多くの才能が輩出されました。蝦夷共和国環境保護と持続可能な発展にも注力しました。豊かな自然環境を守りながら、再生可能エネルギーの利用や環境政策の実施により、地域は持続可能な未来を築いていきました。しかし、成功にもかかわらず、蝦夷共和国は新たな課題に直面しました。国際的な緊張や地域間の対立、資源の過剰利用などが問題となりました。指導者や国民は団結し、これらの課題に立ち向かうための戦略を練りました。

第8章: 未来への道:蝦夷共和国はその成功と変革を維持し、未来への道を歩み始めました。国民は過去の困難を乗り越え、協力と創造性をもって新たな時代を切り拓こうとしていました。地域の統合や国際的な協力、持続可能な開発の追求など、数々の課題が彼らを待ち受けていました。しかし、蝦夷共和国の成功は彼らに力を与え、未来への希望を抱かせました。蝦夷共和国の物語は、その先に続いています。彼らは進化し続け、困難に立ち向かいながらも地域の発展と平和を追求していくのです。

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「名言との対話」5月25日。石井菊次郎「ドイツは最も悪しき同盟国であり、ドイツと絡んだ国はすべて不慮の災難を被っている」

石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年3月10日1866年4月24日)- 昭和20年(1945年5月25日?)は、日本外交官政治家

千葉県出身。帝国大学法科大学卒業後、1891年外務省に入りる。通商局長、次官、駐仏大使を歴任後、1915年に第二次大隈重信内閣の外相に就任、次官は幣原喜重郎であった。日露協約の締結に尽力。1917年アメリカ特派大使として石井‐ランシング協定を結ぶ。1920年駐仏大使となり、ベルサイユ体制下の国際会議で平和条約実施委員長、国際連盟日本代表、同議長、ジュネーブ軍縮会議日本代表などを務め、1927年退官。1929年より枢密顧問官、1933年世界経済会議日本代表を務める。男爵、子爵。1945年5月の東京山手の空襲の際に行方不明となる。

石井菊次郎は、「石井‐ランシング協定」に名をとどめている。それは特派大使の石井とアメリカのランシング国務長官との共同宣言である。アメリカは日本の中国、とくに満蒙に特殊な利益を有することを承認する、日米両国は中国の領土保全、門戸開放、商工業に対する機会均等主義を支持する、というもので日本に有利な協定だった。しかし中国の抗議とアメリカとの解釈の相違で、この協定は1923年に廃棄されている。

石井菊次郎の死亡日は明確ではない。1945年5月25日から26日にかけて東京山手の米軍による大空襲にさらされた。この空襲によって、石井は行方不明となったのである。それ以前の空襲と合わせ、東京の市街地の50.8%が焼失している。ここでは25日とする。

石井菊次郎はドイツのヒトラーに対し不信感を持っていた。枢密院本会議では、利害関係の一致から日独同盟には賛成するが、「ドイツは最も悪しき同盟国であり、ドイツと絡んだ国はすべて不慮の災難を被っている」と述べ、注意を喚起している。

実際には石井菊次郎の懸念通りの展開となって、日本はドイツとともに敗戦を迎える。こういう外交官がいたことを知らなかった。戦後は、6つ年下の幣原喜重郎、12ほど年下の吉田茂らの外務省の後輩たちに志が引き継がれた。