「MetaMoji」本社で打ち合わせ。その後、忘年会。

六本木の「MetaMoji」本社でミーティング。

浮川和宣社長、初子専務、開発担当者らとの打ち合わせを2時間。このお二人は、日本語ワープロ一太郎」を開発したジャストシステムの創業で有名な夫婦だ。以前、「図解マスター」というソフト開発のお手伝いをしたことがある。

その後、料理屋「橘」で絶品の創作和食と日本各地の銘酒を堪能しながら、話が弾んだ。画期的なプロジェクトが始動する。

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「一煎」「先付」「向付」「椀盛」「造り」「八寸」「焼物」「温物」「食事「甘味」「薄茶」。


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「名言との対話」12月14日。森田草平「自分は永遠に漱石の弟子であり、自分自身は一生、師と呼ばれるような人間にはなれる気がしない」

森田 草平(もりた そうへい、1881年明治14年〉3月19日 - 1949年昭和24年〉12月14日)は、作家翻訳家

岐阜市生まれ。四高では恋人との同棲で退学。一高を出て東京帝大に入学。妻(先の恋人)と住んだ借家が樋口一葉の旧宅であることがわかり、長女に一葉の本名のである夏子と命名している。漱石門下に連なった。

卒業後、与謝野鉄幹の「閨秀文学講座」の講師をつとめたが、そこで聴講生の21歳の平塚明子と栃木県塩原で心中事件を起こす。二人は恋人となって死の旅に出るが捜索隊に発見される。これが世間を騒がせた塩原事件である。この女性が後に有名になる平塚雷鳥である。雷鳥は羽が抜けるたびに色が変化する鳥である。その名をつけたのだ。

漱石のすすめで心中事件を描いた『煤煙』は朝日新聞に連載される。草平は朝日の嘱託として文芸欄を担当する。漱石が死去した1910年には自宅の倒壊で漱石の妻の世話になっている。

1920年には漱石門下の野上豊一郎の紹介で法政大学教授になる。しかし1933年には野上と対立し追放する側にまわり、自身もいられなくなった。1940年8月15日の日記に森田は「これでもう飛行機の心配はない。、、今日からは俺が平和の戦争をしなければならない」と決意を述べている。1948年、日本共産党に入党。

こういった生涯の軌跡をみると、この人には事件が多いことに気づく。随分と漱石に迷惑をかけたのだろう。その漱石は、心中未遂事件を小説にすることをすすめて、朝日に載せている。その「煤煙」には、漱石の「序」がついている。

「煤煙の後篇はどうもケレンが多くって不可(いけ)ない」「著者が前篇だけを世に公にするのは余の賛成する所である」「事件が是程充実してゐる割に性格が出てゐないのが不思議である。、、、性格は要吉の特色を指すのである。篇中に書いてあるのは要吉の境遇である」「性格を上手にかく人は、これ程烈しい事件の下に主人公がないでも、淡々たる尋常の些事のうちに動かすべからざる其人の特色を発揮し得るものである」。

感想としては手厳しいが、漱石の小説観を垣間見ることができる。小説は人の境遇や事件の背景を書くものではなく、それしようとする人の性格を描くことにあるのだ。人間を描くことが主題なのだ。

私は森田草平の『女の一生』というタイトルに惹かれて読んでみた。主人公が以前に恋愛関係にあった人妻との再会したときのこころの動きを書いたものである。タイトルほどの深みはない短編だった。

詩人で優れた編集者であった薄田泣菫は「森田草平氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でも、、、、天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人」と述懐している。

阿部能成、小宮豊隆、阿部次郎と並び、漱石門下の四天王の一人であった。漱石は「君弱いことをいってはいけない。僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである。やりたくなくたってやらねばならん」と森田草平の書簡を送って励ましている。

森田草平は「自分は永遠に漱石の弟子であり、自分自身は一生、師と呼ばれるような人間にはなれる気がしない」と漱石の死去の時に語っている。その通りだろうが、改めて夏目漱石の師としての力量を感じることになった。