図解塾:梅棹忠夫『比較文明論』と出口治明『歴史を活かす力』のコラボレーションの試み

図解塾6期⑤。前回の復習は、梅棹先生の図解をみながら、出口治明先生の『歴史を活かす力Q&A』のをオーディブルで聴くという趣向を試す。「宗教が必要な理由」「宗教と暴力」「東南アジアにイスラムが多い理由」「インドでなぜ仏教が壊滅したか」。

梅棹先生が「宗教」には、教理や儀礼など宗教の内容である内的側面「系譜的相互関係」と、外界との関係をみる「社会的機能」という二つのアプローチがあり、後者の「宗教の文明史的考察」を深め「比較宗教論」を取り扱うと述べている。

出口先生のアプローチは、前者に属しており、事例と因果関係を端的に説明してくれているので、補完関係にあることがわかった。

宗教は「系譜的相互関係」と「社会的機能」の両方をみることで、理解のレベルがあがる。

以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。「新しい方法を試みる」と予告されていたので、どういう方法かと楽しみにしておりました。「文明の生態史観」の図解に出口治明先生の本のAudibleを重ねるという、みごとな方法。とてもよかったと思います。すばらしい発想でした。皆さんもおっしゃっていたように、きちんとした骨格に肉がついたという表現がぴったりです。それに血を通わせるのが一人一人のすることですね。深呼吸学部の梅棹忠夫ゼミをこれから始めようとしていますが、ただ単に「知的生産の技術」を読んで感想を言い合うだけにとどまらず、肉付けし血を通わせる何かを見つけられるようにしたいと思っています。今日の「文明の生態史観」については、東西の宗教の並行進化の図は圧巻でした。東西で同じ原動力が働いたのか?それは何か?という新たな問いをもつようになりました。
  • 久恒先生、みなさまお疲れ様でございました。オーディブル出口治明さんの『歴史を活かす力』を聞きながら前回の復習をするという新しい試みでした。梅棹先生の言葉を、久恒先生が図解されたその骨格に、朗読された出口先生のお話が肉付きされ、自分の血や肉となる。という感じを受けました。耳で聞くと、難しい言葉などは流れて行ってしまいますが、目の前に図解があるので、どこの部分の話なのかが追えて、久恒先生の説明とみなさんの感想から理解が深まり、さらに分からない言葉などを調べれば、自分の力となっていく、気がします。これだけ自然科学が進んだ現代でも宗教はなくならないのは、科学の力で突き止められない宗教で説明するからだというのは、日常にある光景だなぁと思いました。最後は神頼み。ということですね。東と西の二つの帝国の対比について、図解した骨格を眺めていると、こういう図解が目次にあって、そこからページに飛べるような教科書があったら、歴史の縦軸と横軸のどこを学んでいるかが分かってよいのではと感じました。次回もどうぞよろしくお願いいたします.
  • 久恒先生、本日もありがとうございました。今日の復習部分のアイデア、梅棹先生の世界観に出口先生の世界観をかぶせて深める進め方、面白かったです。「イスラムiPhoneはともにシンプルだから広がった」というフレーズはとても印象に残りました。図解はまず骨格を作り、骨格があれば、そこに肉をつけ、最後は血を巡らして活きてくるという流れはその通りだと思います。性格的にどうしても細かな部分が気になってしまうので、骨格を作ってからという意識を強く持ちたいと思いました。「図ができた=理論ができた」と言えるけれど、例外が多いとその理論は正しくないということというのも、忘れてはいけないことだと思いました。次回も楽しみにしています.
  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。今日は新しい試みで、久恒先生の描かれた梅棹忠夫先生の図解をみながら、出口治明先生の『歴史を活かす力 人生に役立つ80のQ&A』というオーディオブックを聴き、テーマとなっている「宗教」について理解を深める、というものでした。「宗教は必要なのか?」「なぜ宗教は暴力的になるのか?」「東南アジアはなぜイスラム教なのか?」「インドではなぜ仏教が衰退したのか?」などの問いに対する出口先生の答えを、梅棹先生の理論を描いた図解に書き加えていくイメージ。聴いたあとの印象としては、よりスッキリとシンプルなかたちで理解が進んだという感じです。久恒先生から「まず初めに物事の骨格を捕らえて大枠で理解する。骨格を捕らえるためには図解が最適。そこにいろいろな情報を加えていくと、理解が深まり、自分の文章も出来上がる。」との話がありましたが、普段、細かい枝葉から入り、全体像が分からないまま迷路に入り込んでしまうことも多い中、骨格を知ることの大切さと図解の本質を改めて学んだ感じがいたしました。また、「西と東はパラレルに進行している」という梅棹先生の理論では、マケドニアアレクサンドロスと秦の始皇帝ローマ帝国漢帝国など、同時代の東西の出来事が見事に対をなして動いていることが分かり驚きました。次回も楽しみです。ありがとうございました。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日は第6期図解塾の5回目。先週に続き梅棹文明学プロジェクト、『宗教』をテーマに久恒先生よりレクチュア頂きました。久恒先生の図解で示された梅棹先生の説く宗教世界の骨格をさらに深く理解すべく、今回新たな試みとして立命館アジア太平洋大学学長出口弘明先生によるオーディブル「歴史を生かす力人生に役立つ80のQ&A」を聴視し、塾生個々の感想を交歓しました。梅棹先生の『比較宗教論』では、宗教と外界との関係(地理・歴史といった外的側面:構造)説明が中心ですが、『科学が発達した今日、なお宗教が必要なのは何故か』『宗教が暴力化するのは何故か』という内的側面(関係性)について今回理解を補完する事が出来ました。図解による外的背景を「骨格」と例えると、内的背景という別の視点からの眺めが「肉付け」となり、全体構造の理解を一層深め広げ「血の通う生きた知識」とする事が出来ました。また地理・歴史視点においても『東南アジアでイスラム教徒が多い理由は?』といった時代背景を踏まえた具体的事例に基づいて因果関係を理解できたことも全体像の理解の上で非常に役立ちました。このように基準となる見識に対し、異なる視点での眺めを追加するというアプローチは寺島先生の「リレー塾」及び「世界を知る力」においても各界の第一人者による講演、鼎談という形で取り入れられており、とかく「井の中の蛙」と化し易い狭い見識を広げ、相反する立場の正しい相互理解を可能にする「俯瞰したものの見方」を実践するうえで非常に重要な事だと実感した事が本日の学びとなりました。加えて、相手の立場を理解・尊重すること自体が「文化」であり、これこそ国家の成長をドライブさせる源泉であると東京財団 柯 隆 氏がリレー講座で語っておられた事を思い出し、印象を深めた次第です。対極的にモノを鳥瞰で見る習慣を大事にしていきたいと感じました。有難うございました
  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。今日は最後のほうのみ参加させていただきました。二つの帝国の図解で、西の世界のみ研究する人、東の世界のみ研究する人、細かい所ばかり研究する人など、局所的に研究する人がと思いますが、両方をみて全体を見ることの大切さが、梅棹先生の方法を知り、よくわかりました。私は、細かいところを研究して積み重ねによって全体を見ようとすることが大事だと思っていましたが、時間が足りず全体を把握することまでに到達できなかったり、自分の得意な見たいところだけ研究して、ものの見方が偏ったりする事が生じてくることがわかりました。また、西と東の世界や仏教とキリスト教など二つの事象を比較することで、理解が深まることがわかりました。 物事を把握するには、骨格つくりの大切さ、図解ができること、図解を説明できること、それは理論ができることということを知り、私は、理論からはじめて作ろうとするなかなか前に進まずが、難しいが、図解を作成し説明することなら、できそうな気がしました。大変参考になりました。次回も楽しみにしています。ありがとうございました
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。梅棹忠夫著作集第5巻「文明の生態史観」の5回目。今回は梅棹先生の理論を骨格として、出口治朗先生の理論で肉付けするという進め方で前回の復習をしました。前回の解説で使われた久恒先生作成の図解4枚を見ながら、出口先生の本『歴史を活聞きながら生に役立つ80のQ&A』をオーディブルで聞き、その図解にメモを追加していく、という新しい進め方でした。
     世界の宗教の全体像と関係性等について学んだあとの学びだったため、出口先生のQAを聞くことで、学生時代に違和感を感じたこと、最近別のセミナーで学んで疑問に思ったことなどが解けて、すっきりしました。具体的には、神の教えを守る人がなぜ十字軍のような動きをしたのかとか、論理的に思考できる優秀な学生がなぜオウム真理教などに傾倒するのかなどです。わかりやすく説明されたA(解答)が関西弁交じりで語られるのには驚きましたが、だからこそ私には理解しやすかったのかもしれません。オーディオブックの良さを実感しながら、梅棹先生の理論の理解を深めることができた今回の図解塾、とても心地よい時間となりました。これからも新しい進め方が試されることと思います。楽しみにしておりますので、よろしくお願いいたします。
     
     
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午後は大学セミナーハウスの見学会。橘川、田原、梅田、片岡、久恒、八木、ちとく。

予告・2023年02月18日、19日。八王子で何かがはじまる。勘の働いた人は、スケジュール確保お願いします。|橘川幸夫|note

2月18日・19日。参加型社会学会の主催する蜃気楼大学。

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「名言との対話」12月7日。与謝野晶子人は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」

与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子1878年明治11年〉12月7日 - 1942年昭和17年〉5月29日)は、日本歌人作家思想家

2010年に刊行した拙著『遅咲き偉人伝』(PHP)で与謝野晶子を取り上げている。

以下、近代最高の女性である与謝野晶子を包括的に私が論じたものであるので、転載する。

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与謝野晶子が63歳で亡くなった日の朝日新聞の記事を見たことがある。

詩操では「一世を驚倒せしめ」、明星では「一世を風靡した」、「名著を残し」、評論では「一家をなし」、「一面、女子教育家」だっとその幅広い活躍を報じていた。

住友本社常務理事を務め有名な歌人でもあった川田順の追憶では「若くして名をなした天才、、、」「敬服すべき糟糠の妻だった」ともあった。

与謝野晶子は、生涯で5万余首の歌を詠んでいる。その数は斉藤茂吉の3倍以上である。

生前の歌集は21冊。作歌時代は1年1冊のペースで歌集を刊行。評論やエッセイは15冊。そして童話100篇を書いている。

数々の記憶に残る歌や、平塚雷鳥との母性をめぐる論争、源氏物語の現代訳の完成、また全国を旅すると残る多数の歌碑の存在など、一人の女性がなしたとはとても思えないほどの仕事量であった。

 

「君死にたまうことなかれ」(半年前に召集され旅順攻略戦に加わっていた弟宗七を嘆いて。明星1904年9月号)

 ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ

 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも

 親は刃(やいば)をにぎらせて  人を殺せと をしへ(教え)しや

 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

 

 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて

 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ

 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ

 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

 

 君死にたまふことなかれ、 すめらみこと(皇尊)は、戦ひに

 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し

 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、

 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。

 

 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ

 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、

 なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守(も)り

 安しときける大御代も  母のしら髪(が)は まさりぬる。

 

 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を

 君わするるや、思へるや 十月(とつき)も添はで わかれたる

 少女(をとめ)ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで

 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

 

この歌は「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為」であり、世を害する思想などと批判を受けたことに対する晶子の反論は見事なものだった。

「私が『君死にたまふことなかれ』と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」(以下略)

 「まことの心をうたはぬ歌に、何のねうちか候べき」。最後のこの一行はとどめの一撃である。

 

私が感銘を受けた歌をあげてみたい。

 やわはだのあつき血潮に触れもみでさびしからずや道を説く君

 春短し何の不滅の命ぞと力ある乳を手にさぐらせぬ

 人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜を我ぬらむ願

 ゆあみする泉の底の小百合花二十の夏を美しとみぬ

 清水の祇園の夜の桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

 四五日か三月ばかりか千年かかのいやはての口つけのちち

 われの名に太陽を三つ重ねたる親ありしかど淋し末の日

 

「青踏」の平塚らいてう(1886-1971)らとの母性保護論争も有名である。

「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」とたからかに宣言した平塚らいてうは、「子供を産み育てることは、社会的・国家的性質を持つものであるから、女性が子供を育てている期間、国家の保護を求めるのは必要なことである」「女性は母性であるが故に保護されるべきである」と主張した。

それに対し、「労働することを人生の大きな「楽しみ」の一つとして考へて頂きたい」と徳島師範学校の講演でも話している晶子は「国家に寄食する依頼主義である」「男女は対等な関係」であるとして批判し、「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。

裕福な経済環境の中で論じていた平塚らいてう山川菊栄(労農派マルクス主義の理論的指導者であった山川均の妻で片山内閣での労働省初代婦人局長)、山田わか(婦人運動家)らと激烈な論争を行った。

今日にも通じる問題である。

 

「12歳の時からの恩師」と呼ぶ紫式部源氏物語の新訳は、1909年に依頼を受けライフワークとして取り組んで、1939年(昭和14年)に全6巻を完成している。途中1912年の関東大震災によって原稿が焼失するなどの悲劇があり、気を取り直して、乗り越えている。次の歌は、原稿がなくなった時の歌である。無念さが感じられる。 

  十余年われが書きためし草稿の

  跡あるべきや学院の灰

この「学院」とは、羽仁もと子自由学園とほぼ時を同じくして創設した学校で、文部省の規定に逆らって男女共学にした。晶子は教育にも熱心で後に重い役職にも就いている。

そして、晶子は消失した源氏物語の現代語訳に57歳から再び挑戦して60歳で全訳六巻を刊行してもいる。その時の歌が残っている。

 源氏をば一人になりて後に書く

  紫女年若く われは然らず

 

晶子・源氏は「大胆な意訳・女人の心をもって女人の心を見ている・近代の歌人の心をもって古代の歌人の心をとらえている」と讃えられた。序文を書いた上田敏は、源氏物語を現代口語訳の業が、いかにもこれにふさわしい人を得たとし、文壇の一快事だと言っている。そして「たおやかな原文の調べが、いたずらに柔軟微温の文体に移されず、かえってきびきびしたしゅうけいの口語脈に変じたことを喜ぶ。」と言い、「この新訳は成功である」と述べている。

この訳本には序文が二つ載っていて、もう一人は森林太郎(鷗外)だった。鷗外は「源氏物語を翻訳するに適した人を、わたくしどもの同世の人の間に求めますれば、与謝野晶子さんに増す人はあるまい」と言っている。

源氏物語は、谷崎潤一郎円地文子瀬戸内寂聴橋本治の訳などがあり、私は「窯変 源氏物語」を書いた橋本治の名訳・全14巻を読んでいるが、これも豪華絢爛たる名訳だった。

 

また、晶子は、愛の歌人でもあった。夫・鉄幹に対する恋心は、41年間に及び、その心を「みだれ髪」から没後に出版された「白桜集」に至るまで歌い続けているのも驚きである。

ヨーロッパにいる寛を訪ねるときの歌は、高らかなファンファーレが響くような歌である。

 いざ、天の日は我がために

 金の車をきしらせよ

 あらしの羽は東より

 いざ、こころよく我を追へ、、、

そして、私生活をさらにみると、驚きが広がる。

与謝野晶子は夫・鉄幹との間に実に11人の子供をもうけている。11回の出産で双子が二組あったから13人となるが、死産と直後の死亡で育ったのが11人となる。

24歳で長男光、26歳で次男秀、29歳で長女八峰、次女七瀬(双子)、31歳で三男麟、32歳三女佐保子、33歳で四女宇智子、35歳で四男アウギュスト、37歳で五女エレンヌ、38歳で五男健、39歳で六男寸、41歳で六女藤子。

つまり24歳から41歳までいつも妊娠状態だった、ということになる。その中であれだけの膨大でかつ優れた仕事を成し遂げたことに驚かざるを得ない。

これらの子供の名づけ親は、上田敏薄田泣菫森鴎外ロダンたちだった。

「幾たび経験しても其度毎に新しい不安と恐怖を覚えるものは分娩」と述べている晶子は、いつも重い出産に苦しめられていた。

「母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ」

という出産を表現した女性としての壮絶な歌も詠んでいる。

しかし子どもが生まれると、晶子はすぐに仕事と育児に明け暮れる。そうした日常の中で、先に述べた多くのすぐれた仕事を残した。そのエネルギーに驚きと尊敬を禁じえない。

ところが子供たちからみると、口数が少なくいつも何かを考えていて、いつも心ここにあらずという風情だったらしい。母の作った料理を口にしたことはない、子供たちは晶子に看病してもらったこともなかった。

与謝野家の家計は、そのほとんどが「気むずかい父の機嫌をとり、一家の経済を一人の肩に背負っていた」晶子の肩にかかっており、生活のためにあらゆる仕事をこなしたという面もあったようだ。

ちなみに、自由民主党の重鎮であり政界屈指の政策通といわれる与謝野馨氏は鉄幹・晶子の次男で外交官であった秀(しげる)の長男である。

 

「折々に私はこんな事を空想することがあります。私に満3年ほど休養して読書することのできる余裕を与へて呉れる未知の友人はないかと。若し万一にもさう云ふ篤志な知己が得られるなら、私は今の毎月の労働を三分の一に減じ、月の二十日間を、特に教授に乞うて帝国大学の文科の聴講と図書館に於ける独習とに耽るでせう。猶その余暇に私は東京と地方にある種種の工場などを見学して廻るでせう。私は可なり欲が深い。史学、文学、社会問題、教育問題、婦人問題等に就いて何れも多少の重みのある著述がしたい。さうして同時に修めたいのは哲学、心理学、社会学、経済学等であるのです。」

 

何という欲張りだろうかと、その向上心に敬意を表したくなる。もし晶子が女性でなく、出産や子育てから解放されていたら、どのような業績を残しただろうか。

生涯に5万首の歌を詠み、23歌集を出版した与謝野晶子のエネルギーは並大抵ではない。

 

恋愛、家族愛、教育、著作、作歌、あらゆる分野に抜きんでた巨人・与謝野晶子のエネルギー源は、いったい何だったのだろうか。

一身にして二生を生きるという言葉があるが、与謝野晶子は、男の人生と、女の人生を、ともに十分に生きたのである。

 年若くして世に出て、63歳で没するまで全力疾走で駆け抜けた与謝野晶子の生涯から学ぶことは多い。