神奈川近代文学館「本の芸術家 武井武雄展」。横浜そごう美術館「大森暁生展ー霊気を掘り出す彫刻家」。

11時から:神奈川近代文学館で開催中の「本の芸術家 武井武雄展」。

井 武雄(たけい たけお、1894年明治27年〉6月25日 - 1983年〈昭和58年〉2月7日)は、童画家、版画家、造本作家

「本の芸術家」に焦点を当てた、優れた企画展。

41歳の「十二支絵本」から88歳「天竺の鳥」まで、半世紀近くにわたって創造した139作品をすべて観賞した。それは武井武雄の素晴らしいライフワークの結晶だった。

武井武雄作品集』と、エッセイ集『本とその周辺』(中公文庫)を購入。

 

13時から:横浜そごう美術館で開催中の「大森暁生展ー霊気を掘り出す彫刻家」。

1971年生まれ。ちょうど、ご本人が友人と撮影していたので、その光景を撮影。

『大森暁生作品写真集 しあわせな彫刻』(芸術新聞社監修)を購入。

 

14時から:息子、妻、義妹と、そごう美術館の隣の喫茶で歓談。「感動の涙」「生きててよかった」、、。

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「名言との対話」6月25日。宮城道雄「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる」

宮城道雄(1894年(明治27年)4月7日 - 1956年(昭和31年)6月25日。)箏曲演奏家、作曲家。

神戸出身。7眼病があり7歳の時に失明する。音楽の道を志し8歳で生田流筝曲の二代目菊仲検校、二代目、三代目中島検校に師事。11歳で免許皆伝。13歳、朝鮮にわたり後に生涯の親友となる尺八の吉田晴風と出会う。1916年、最高位の大検校に昇進。1917年上京。1918年に再婚。1919年、作曲家としてデビュー。吉田晴風らとともに「新日本音楽」運動を起こす。洋楽を取り入れた新傾向の作品を作り、演奏技巧を拡大。レコードや放送に活躍した。

1937年には、東京音楽学校で7年の講師を経て教授となる。教則本の執筆、後進の育成に熱心にあたる。1941年、芸術院会員。1951年には門人たちで構成する「宮城会」が結成される。1956年、夜行寝台列車から転落し、死去する。

5歳年上の文学者・内田百閒は筝曲を宮城道雄に師事している。最初は師弟関係であったが、のちに二人は筝曲は宮城、文学は百閒が師となる関係となり、大の親友となった。、彼との交流を描いた随筆は数多い。百閒は「東海道刈谷駅」という随筆を書いている。昭和三十一年六月二十四日の朝、大検校宮城道雄は死神の迎えを受けて東京牛込中町の自宅に目をさました。」から始まる。刈谷駅は宮城が転落死した近くの駅である。

「宮城は列車の動揺でよろめきながら、一足ずつに通路を蹈んで手洗いに行こうとした。喜代子に連れて来て貰っているから、勝手はわかって居り、扉の開けたての順序も覚えている、折角寝込んでいる彼女を起こすがものはない。ひょろひょろしながら第一の扉の所まで来たが、閉まっている筈のその扉が開いたなりになっていた。
扉が開いていると云う事は宮城には見えない。まだその第一の扉まで来ないと彼は思った。
車掌やボイが後を閉め忘れて行くと云う事はない。彼等は必ず閉める。その後で起き出した深夜の寝台客が、手洗いの帰りにでも閉め忘れたかも知れない。しかしただ閉め忘れただけなら、扉の握りをよく引いていなかったと云うだけなら、その内に列車の動揺で大概はひとりでに閉まる。それでも開いていたとすれば、閉まらないように死神が押さ
えていて宮城を通したのだろう。」これが親友の手になる宮城道雄の死の情景だ。

代表曲に「水の変態」「春の海」「さくら変奏曲」などがある。2014年朝鮮通信使の研究で、鞆の浦の歴史民俗資料館を見学したことがある。鞆の浦は道雄の父の故郷だ。鞆城の跡に立つ資料館の庭には宮城道雄の銅像が立っていた。名曲「春の海」は瀬戸内海のこの地のイメージだった。2階は宮城道雄の記念室だった。宮城には350曲を作曲、そして10冊の随筆集がある。1978年に新宿区に宮城道雄記念館が設立された記念館も訪問したことがある。

  • 「私は明けても暮れても自分の心を磨き、わざを高めることにすべてを向けてまいりました。生活そのものが芸でなければならないという信念で生きてまいりました。」
  • 「私は思う。音には白い音、黒い音、赤い音、黄色い音というように、いろいろな音がある」

さて、宮城道雄のいう「馬鹿になれ」とは「素直になれ」ということだろう。私の経験でも、伸びる人か否かはすぐにわかる。若いときに素直な人は必ず伸びる。素直な心、それを素心という。

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