武井 武雄(たけい たけお、1894年〈明治27年〉6月25日 - 1983年〈昭和58年〉2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。
- 一冊ごとに表現形式を変える。マンネリズムを防ぐ。個性は不動だがバラエティがつく。
- 「未経験の新しい素材ととっ組む事、つまり処女地に鍬を入れる事は如何にも少年らしい夢とファイトを湧かす機会であって誠に得がたい若返りの法でもあるわけである」。
- 「本というものの固定観念を破り、動脈硬化を防いで本感覚を新鮮にしていく事こそ本の美術への新しい道と考えているからである」。
- 「本は読むものだと言う長い世紀に亘考え方は徐々に覆されていくだろう」。
「本の宝石」「本の芸術作品」と呼ばれ、愛書家垂涎の稀観本といわれる139の作品を堪能した。「十二支絵本」(一色凸版)から、「天竺の鳥」(印度手漉紙本、二色凸版、めおと函)まで、実に見事な芸術作品だった。一冊ごとに印刷方式を変えた。中にはパピルスを育てることからはじめた「ナイルの葦」という作品もあった。外装だけでなく、中身の文章や詩も自らの創作である。時代物、和洋、時代を問わないなど、深い教養が滲み出ている。絵は抽象、細密などなんでもござれだ。41歳から88歳まで半世紀近く続けたまさに「ライフワーク」であった。
これはコレクターの平尾栄美の遺族からの提供された1800点の資料に含まれていた。この文学館では「平尾栄美コレクション武井武夫資料」として保存されている。平尾の多彩で膨大なコレクションは、遺言に従って、これ以外にも映画関連文献と横浜絵葉書が横浜開港資料館に、郷土玩具と関連文献が横浜市歴史博物館におさめられている。
武井武雄『本とその周辺』(中公文庫)を読了。
「イルフ」は、古いを反対から読んだもので、新しいという意味である。
「童画」は武井の造語。
- 理解は図。感じとるのは絵。説明は図。感得は絵。図は技術、絵は芸術。
- 「名人が変人に見えるのはいわゆる常人の錯覚で、この変人こそは本当の人間だ」
飯沢匡「パーフェクショニストの仕事で、隅々まで先生の神経が行き届いているのである。自然、精力的でり、妥協がなく合理的で、手抜きがなく緻密で、しかも失敗がない。つまり、やはり天才の仕事でしかない」。
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「名言との対話」6月26日。山川健次郎「己が専門の蘊奥を極め、合わせて他の凡てのことに対して一応の知識を有して居らんで、即ち修養が広くなければ完全な士と云う可からず」
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、1854年9月9日(安政元年閏7月17日) - 1931年(昭和6年)6月26日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。享年76。
会津藩の白虎隊から始まり、17歳でアメリカ留学、エール大学に学び物理学を専門とする。32歳で帰国後、東京帝国大学(48歳、52歳)、九州帝国大学(58歳)、京都帝国大学(61歳)の総長をつとめ、東京理科大の創設にかかわる。退官後も、武蔵高校(武蔵大学。73歳)、そして安川財閥の資金提供を受けて設立された明治専門学校(九州工大)の校長、総裁をつとめた。二度に及んだ東京帝大総長の11年11カ月に及んだ在任期間は歴代最長である。
山川は清廉潔白な人柄であった。住まいは破れ別荘のごとくなっていた。宴会には出席しないし、講演会では報酬を受け取らない。また一つのことを成し遂げると、弟子に譲る。弟子が有名になる人だった。田中館愛橘、長岡半太郎などが弟子であり、その流れがノーベル物理学賞の湯川秀樹、朝永振一郎につながる。そういう人物だった。
会津の有名な「十の掟」と海外留学が山川をつくり、その山川が日本の教育界を形づくった。全国各地の学校で講演も多く、最多は1年間30回。1日3回のこともあった。
山川健次郎は、賊軍の会津出身であったが、人の縁といくつかの幸運に導かれて教育界に大きな足跡を残した。傑物であった兄の山川浩も東京高等師範学校の校長をつとめるなど、山川家は教育界に大きな貢献をしている。妹・捨松は大山巌夫人。
大河内正敏は1921年若干43歳で理化学研究所の所長となる。高峰譲吉が理研を提唱、渋沢栄一は副総裁として財政を後押しした理研は63社、121工場もの企業群を擁するコンツェルンを形成したが、人材輩出の面で素晴らしい業績をあげている。若い大河内を推薦したのは山川健次郎東大総長だった。
私は2010年に会津大学に招かれて講演をしたことがある。白虎隊伝承史学館などを見学した。このとき、「山川健次郎は白虎隊顕彰の最大の功労者なり」との言葉をみつけた。白虎隊が後に喧伝されるようになったのは、山川の努力のおかげなのだ。
山川健次郎の言葉。
- 「およそ世の中で戦争ほど悲惨なものはない」
- 「日米戦争などまったくばかげておる。そういうとをいう者は浅薄で思慮のない者どもである。日米双方にとってまったく益のないことであり、両国の識者が話し合うべきだ」
山川健次郎の冒頭の言葉は、深い専門と広い知識を持つこと、そのために日々精進することが人物たることの条件であることを述べているように思う。「教養と修養」である。
参考。「NHKアーカイブ」。星亮一「山川健次郎伝」。「幽囚禄」