芥川龍之介『侏儒の言葉』ーー幸福・自殺・人生・醜聞・晩年・自由・健康・運命、、

昨日、芥川龍之介のことを書いた。手元にある芥川龍之介侏儒の言葉西方の人』(新潮文庫)をあらためて読んでみた。『侏儒の言葉』は、盟友・菊池寛が創刊した「文藝春秋」の創刊号から3年近くにわたり掲載されたものだ。この文庫には「遺稿」も入っている。

自らを神にしたいと念じた青年が大凡下の一人と自認する壮年に至った、侏儒・芥川龍之介の言葉だ。皮肉と逆説と真実と諧謔に富んだ言葉から、侏儒である私の心に響いたものを以下に載せる。

  • 偶然は云わば天意である。
  • 中庸(good sense)を持たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に団扇を揮ったりする瘦せ我慢の幸福である。
  • 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こういうゲエムのばかばかしさに憤怒を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。
  • 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。
  • 公衆は醜聞を愛するものである。、、、「隠れたる自己の醜聞も当たり前のように見せてくれるから」(グルモン)。、、醜聞さえ起こし得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼らの怯懦を弁解する好個の武器を見出すのである。
  • 輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。
  • 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
  • 民衆は穏健なる保守主義者である。、、、民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならない。
  • 庸才の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。
  • 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人である。
  • わたしの愛する作品は、ーー文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間をーー頭脳と心臓と官能とを一人前に具えた人間を。
  • 最も幸福な芸術家は晩年に名声を得る芸術家である。
  • 彼らの大小を知らんとするものは彼らの成したことに依り、彼らの成さんとしたことを見なければならぬ。
  • 我々を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。、、、彼らは皆閑人ばかりである。
  • 自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。
  • 消火は放火ほど容易ではない。
  • 文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。スエーデン式体操、菜食主義、複方ジアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。
  • 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
  • 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中に在る」と云う言葉は決して等閑(なおざり)に生まれたものではない。
  • 遺伝、境遇、偶然、ーーー我々の運命を司るものは畢竟この三者である、一人の知慧は民族の知慧に若かない。唯もう少し簡潔であれば、、、、(聖書)
  • 彼は誰よりも単純だった。(或仕合せ者)
  • 「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月25日。緒方洪庵「返す返すも六かしき字を弄ぶ忽れ」

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士医師蘭学者。享年52。

岡山市出身。大坂に出て蘭学と医学を学ぶ。江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に学ぶ。長崎に遊学し医学を学ぶ。

1838年、大坂に戻り医業を開業。同時に蘭学塾「適適斎塾」(適塾)を開く。1849年、牛痘種痘法による切痘を始めた。1862年奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕。法眼に叙せられる。

緒方洪庵の信条は「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また、利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ」であった。

17歳からオランダ語を始めた洪庵はドイツ人医師フーフェランドのドイツ語の『医学全書』をオランダ語訳から重訳し、33歳から52歳まで20年かけて30冊の和訳『扶氏経験遺訓』として完成させ、幕末の医学に大きな影響を与えている。洪庵はこのライフワークの完成2年後に死去している。

杉田玄白(1733-1817)ーー宇田川玄真(1770-1835)ーー緒方洪庵(1810‐1963)ーー福沢諭吉(1835-1901 )と続く師弟関係があった。洪庵は適塾においての指導で、福沢以外にも大鳥圭介、橋本佐内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末から明治にかけて活躍した多くの人材を輩出していることも特筆すべき業績である。

塾生は洪庵の穏やかな人柄と高い学識に傾倒した。福沢は『福翁自伝』において、自分が重病に陥ったときの洪庵の厚い看病によって生き延びたことに感謝している。そして「誠に類まれなる高徳の君子なり」と讃えている。

福沢諭吉を生涯のテーマとした慶應義塾の名塾長・小泉信三は、福沢諭吉緒方洪庵が「返す返すも六かしき字を弄ぶ勿れ」戒め、福沢の「深く之を心に銘じて爾来曾て忘れたることなし」との言葉を紹介している。

学問のすすめ」「福翁自伝」「文明論の概略」など福沢の著書は実に読みやすい。テンポのいい漢文調の文章、そして分かりやすい口語体の名文などの源は、師の緒方洪庵の影響であった。洪庵は造語の名人であったらしい。そのために漢学を学ぶことも勧めていた。福沢諭吉は、speechを演説と訳したことはよく知られているが、「西洋」「自由」などのもそうである。これも洪庵の影響ではないだろうか。

難しい言葉や言い回しの多用をレベルの高さと勘違いしてはいけない。どのような職業においても、難しいことをやさしく説明することを心掛けたいものである。