NHKスぺシャル「Deep OceanⅡ」。東京MX [世界を知る力 対談篇 ロシア」。「名言の暦」の昨年分の追加「酒の神様・野白金一」。

21時からNHKスペシャル「Deep OceanⅡ 紅海 世界初! 深海の魔境に挑む」をみる。

サウジアラビア・紅海という閉ざされた海の深海という人類にとってのフロンティアに潜水艇を使って挑む。海底に存在する、塩度の高い謎の海「ブラインプール」の神秘な光景。原始の海に近い環境であり、生命の起源の解明につながる可能性がある、という。

サウジアラビアのアブドラ国王科学技術大学の五條堀孝特別栄誉教授が、この深海潜水艇に乗り込み、探査するという番組。

NHKの底力を感じる番組だった。

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11時から、東京MXテレビ・寺島実郎の「世界を知る力」対談篇。

ゲストは下斗米伸夫(ロシア)先生とモスクワ公使・ウクライナ大使を経験した天江喜七郎氏。見ごたえがった。内容は明日以降にアップ。

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安川新一郎『BRAIN WORKOUT』が到着、風呂でざっと読んだ。

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『名言の暦 明治誕生日編』で抜けていた12月18日を書いた。これで366日すべて完了。

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「名言との対話」12月18日。野白金一「赤酒を造る蔵で、赤酒を造る杜氏清酒を造っても、熊本の清酒は進歩しない」

野白金一(1876年12月18日ー1964年10月22日)は、醸造学者。

島根県松江市出身。清酒もつくる醤油醸造業の長男。東京高等工業(東京工大)応用化学で学び、首席で卒業し、松江税務管理局に入り、酒造りの指導者として社会人生活を始める。

26歳、当時九州全域を統括していた熊本税務監察局鑑定部に異動。県内各地を巡回し指導を行う。31歳、鑑定部長に昇進。

酒造りは、国家の税収に直結するので、当時も今も貴重な財源である。国は各県で一種類の酒しか認めなかった。鹿児島は焼酎、熊本は赤酒だった。赤酒はトロリとした感触の甘い酒である。赤酒は御国酒であり、その酒蔵が清酒をつくってもなかなかいい味がでない。野白はキリっとした芳醇な清酒を造りを目指し、赤酒退治を始める。当初は相手にされなかったが、しだいに理解されて、1909年に瑞鷹という酒蔵の一角に熊本酒造研究所が産声をあげる。野白の赴任から14年たって、熊本の酒が二度目の1位を獲得する。

野白に広島転任の辞令がでたが、辞職し熊本で仕事をして欲しいとの運動が起こる。野白は1919年に官を辞し熊本で酒造りの指導に邁進する。そして「香露」という銘酒を誕生させる。1930年の全国新酒鑑評会で、熊本県酒は1位、2位、3位、5位を独占する。後進県であった熊本が一気に全国有数の酒どころになった快挙を為し遂げる。野白は50代半ばになろうとしていた。

「秩父で富田勲先生を囲む絶品の蕎麦と大吟醸を愛でる2014年で会」という楽しい会を2014年で終了する迄20年以上続けた。富田先生の大吟醸のようなふくよかな人柄に接してこれたのは実に幸せなことだった。「渡り鳥が危険をおかしてまで海を渡るように、 『やらねばならぬ』ことは人それぞれにある。 私の場合それが『音楽』だったのです。」と息子さんに語っていたそうだ。JALが日本各地の名酒蔵から選んだ大吟醸12種類を10年にわたってファーストクラスに搭載して好評を得たプロジェクトでは、富田先生と協力した。その時、菊姫、豊の秋、西の関、四季桜などと並んで熊本の香露という銘酒を知った。その過程で野白金一の名前を聞いた気がする。私も少しだが、「酒の神様」と尊敬されたこの人とも縁があったのだと嬉しくなった。「酒の博士」の異名がある東大の坂口謹一郎のことなども思い出した。

日本には神様が多い。いくつか思いつくままにあげてみよう。鉄の神様。憲政の神様。打撃の神様。漫画の神様。経営の神様。ショートショートの神様。柔道の神様。育児の神様。お金儲けの神様。販売の神様。特撮の神さま。新劇の神様。童話の網様。競馬の神様。同時通訳の神様。式典の神様。ジャズドラムの神様。ビリヤードの神様。税の神様。私小説の神様。ナンセンスの神様。、、。こういった神様のなかでも世界に冠たる日本酒の、「酒」の神様は位は高いのではないか。

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「名言との対話」7月23日。葛西善蔵「人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まると思って居る」

葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家。享年41。

青森県弘前市出身。北海道、青森県の各地を転々としたのち上京。1912年に広津和郎らと同人雑誌『奇蹟』を創刊。26歳で書いた処女作『哀しき父』 には貧窮、一家離散、孤独、病気、耽酒などのどん底で、芸術的信念を貫こうとする個性のあり方を、とぼけたおかしみをもって追求する。出世作は1918年の『子をつれて』。自然主義の伝統を継いだ私小説に徹し、破滅型と呼ばれる苛烈な自虐的作品を相次いで発表した。

主著は、『湖畔手記』 、『贋物 (にせもの) さげて』 、『おせい』 以下の「おせいもの」、『蠢 (うごめ) く者』 など。

鎌田 慧『椎の若葉に光あれ―葛西善蔵の生涯』 (岩波現代文庫)を読んだ。

鎌田は高校生のとき、いつか同郷・津軽葛西善蔵について書きたいとねがっている。同じく同郷の石坂洋次郎よりも、葛西や太宰治に惹かれた。二人とも郷土津軽では鼻つまみものだった。この本は優れた評伝文学である。

葛西善三とはいかなる人物か。その描写をピックアップしてみよう。几帳面な筆跡。気弱さと、それを隠す傲岸さ。ユーモアと詩情。愚痴、クダ、嫌味。うそやごまかしや悪意を少しも持たない素朴な自然人。身を捨てた飄逸さ。衒いや欲気のない生き方。愛嬌。愛らしさ。魅力。、、、。人柄が目に見えるようだ。

貧困、病気、酒、女、などで苦しむ自分自身を接写レンズで描く。破滅型の人生を自分で実験してつくりだす。そこから芸術生活が始まるという考えだった。

・「書きながら纏めたり突込んだりして行くほかないやうな気がする」

・「事実」「実際体験」の記録にこそ真実がある。

・「仕事さへできればいい」「いい作さへ書ければ、何もいらない」

生涯で60数篇を書いた寡作の人だ。一日に一枚か二枚しか書かなかった。『葛西善三全集』第一巻の製本見本を見届けた四日後に死去している。自分の体験を書いているから、全ての小説を総合すると、自伝になる。葛西は「私小説の神様」と呼ばれている。

「人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まると思って居る」ということになると、自身の生活を追い込むことにならざるを得ない。「自分にも厳しく、他人にも厳しく」がモットーだったから、周りの家族は悲惨な目にあうことになる。

こういった事実と体験を見つめ、それを細大もらさず、そしてユーモアをもって書きつけるから、今なおファンはいる。この本を書いた鎌田もその一人だ。文壇においては、このような無頼型、破滅型という文士の流れは、細くはなっているが、まだ続いているように思う。

1994年に発表した鎌田のこの本について「解説」を書いた荒川洋治は「人を物語るときの散文の理想」だと書いている。トヨタ季節工体験を描いた『自動車絶望工場』などのルポ・ライターとしての名が高い。私の所属しているNPO法人知的生産の技術研究会でも呼んで話を聞いたことがある。知的生産を志していたわたしは、ルポという分野に興味を持った。鎌田はルポだけではなく、1990年には『反骨 鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞受賞。1991年いは『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞受賞している。評伝分野でもいい仕事をしていたことを初めて知った。

 出典「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)」