知研読書会ーー「戦後をつくった人たち編」を発表:「鬼塚喜八郎」「浪越徳次郎」「田村魚菜」「村上信夫」「塚本幸一」「土屋文明」「花森安治」

知研幹部会の後、知研読書会に参加。

私は5月の「戦後代総理編」、6月の「太平洋戦争前後編」に続いて、「戦後をつくった人たち編」を発表した。いずれも複数の本を一気に紹介するという趣向である。

戦争に出征し、関与せざるを得なかった人たちが、焼け野原となった敗戦の故国をみて、スポーツ、健康、食事、文化、医療、生活など、それぞれの分野で新しい日本の一角を築いた物語だ。

以下、司会の都築さんのレポート。
「知研・読書会」第13回が終わりました。参加者は5名でしたが、今回も非常に濃い内容で、これまで全く知らなかった世界の本に出会うことができました。また、参加した方々の紹介トークも楽しむことができました。なお、来月から原則木曜日に変更します。8月は31日の予定です。
今回、次の本が紹介されていました。
■小林武彦「なぜヒトだけが老いるのか」講談社現代新書
  ほとんどの動物は、卵や子を産んで次の世代を残せば用済みで死んでいきます。しかし、ヒトでは生殖年齢以降も長い老後の時代が続きます。「老い」の時代をもっているのはヒトだけです(保護されているペットなどは例外)。著者の小林武彦氏は、この本の前半で老化のしくみについて非常に分かりやすくひもといて、後半でヒトの進化にとって社会の中に高齢者がいることが必要であったと説明しています。それは、若い親の育児を助ける「おばあちゃん」の存在と、経験・知識・技術を社会の中で役立てる「シニア」の存在です。著者は「いいシニアになろう!」と呼びかけるとともに、その観点から少子化問題や研究者が育っていない現在の日本の課題にも考えを述べています。
■長谷川克・森本元「ツバメのひみつ」緑書房
 ツバメだけでまるまる1冊。平均寿命が1.6年だとか、一日に2000匹の虫を捕らえるとか、渡りのスピードが7日で3000kmなどのツバメの能力や、高級食材としての燕の巣が実はジャワアマツバメであることなど、身近な野鳥でも私たちが知らないことがいっぱいあることを教えてくれます。
■ピエロ・マルティン(川島透訳)「測る世界史 世界の基準となった7つの単位の物語」朝日新聞社
 私たちは日々、いろいろな単位に接しています。この本によれば、世界は7つの単位で測れる、とあります。すなわち、m、秒、kg、絶対温度(K)、A(アンペア)、モル、Cd(カンデラ)。これらの単位の起源から、長い歴史の中で現代に至る様々な経緯が紹介されています。60歳以上の方は、わが国でも尺貫といった単位から国際標準のメートル法に変わった実体験をしています。なお、フィートやポンドを使い続ける先進国についての疑問も意見交換の中で出ていました。
■小橋麟瑞「五体書道入門」村田松栄館
 活字でなく毛筆で書かれています。「書道は、技巧の取得だけでなく手習そのものの中に修養の過程がある」としています。よく知られている「永字八法」ですがここでは「永字九法」で、その一つ一つに意味があると述べられています。また、西郷隆盛の「南州遺訓」も紹介されています。
【戦後日本の産業や文化を創ってきた人々】
第二次世界大戦の経験を経て、戦後になってこれからの日本に必要なものを創っていこうと、新しい時代を拓いた人たちの物語をまとめて紹介されました。メモだけですみません。個々の書名等については後ほど追記します。
鬼塚喜八郎 戦後、スポーツが大切で、とりわけスポーツシューズが重要と、アシックスを創業。アベベをはじめ著名なマラソンランナーに靴を履いてもらい、大いなるPRとなった。
■田村魚菜 魚菜学園など料理の普及。
浪越徳治郎 指圧を開発。50年で20万人に施術。指圧を人脈形成の場として活かした。
■村上信雄 シベリア抑留の体験。帝国ホテル。バイキングの開発。「料理人は怒らない」
■塚本公一 55名中3名しか生き残れなかったイパール作戦に従軍。戦後は女性の下着メーカー、ワコールを創業。
土屋文明 「我に言葉あり」足かけ8年の万葉集。ライフワークが終わった時に「ここから始まる」
花森安治 戦時中は大政翼賛会で「欲しがりません勝つまでは」など推進。戦後は贖罪の意味で暮らしを第一に考える「暮しの手帖」を創刊。

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午前は芦花公園世田谷文学館で開催中の石黒亜矢子「ばけものぞろぞろ」展を訪問。

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「名言との対話」7月28日。宮武外骨「露骨正直天真爛漫、無遠慮」

宮武 外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日慶応3年1月18日) -1955年7月28日昭和30年7月28日)は、日本ジャーナリスト新聞記者編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。

香川県生れ。 18歳の頃、本名の亀四郎を「外骨」と改名する。「外骨」は中国の『康熙字典』の「亀」の項に、「亀外骨内肉者也」(亀ハ骨ヲ外ニシ肉ヲ内ニセル者也)とあることによる。師は30歳年上の成島柳北である。

頓智協会雑誌》《滑稽新聞》《大阪滑稽新聞》、雑誌《此花、日刊誌《不二》、雑誌《スコブル》など多くの新聞・雑誌を創刊。反官的風刺を行い筆禍をたびたびまねいた。大正後半には《賭博史》《私刑類纂》などの著述に専念し、ついで吉野作造らと明治文化研究会を組織し、明治文化史の研究に向かった。1926年、東大に設けられた明治新聞雑誌文庫の主任となり、在任中所蔵目録《東天紅》や《公私月報》を発行した。

吉野孝雄宮武外骨伝』(河出文庫)を読んだ。この伝記は外骨の甥が書いたもので、1980年の日本ノンフィクション賞を受賞した作品である。吉野は8歳から外骨の最晩年をともに生活したから、作品に気迫がこもっている。この本の最後の掲載されている「著者ノート」には、亡くなった時の小学4年生の日記に「おじいさんの知り合いはみんなえらいかたばかりです」との記述がある。吉野にはこの本を書く理由があった。

外骨による雑誌、新聞、単行本の発刊は優に160点を超えたが、筆禍による入獄は4回、罰金刑15回、刊行物の発売禁止・発行停止は14回という隆々たる筆禍の歴史がある。平等思想が反権力となり、獄中生活がその思想に形を与えたのである。

当時、新聞記者の小川定明、学者の南方熊楠と並んで天下の三奇才兼三奇人とされた。外骨の場合には、「優れている者」に限らず、「変人」の意味も含まれていた。 流行や権力が生み出すメインストリームに抵抗する「奇人」の思想家の系譜に属している

吉野作造東大教授が名著と評価している『筆禍史』には、小野篁から始まり、山家素行、貝原益軒山東京伝林子平式亭三馬為永春水平田篤胤渡辺崋山柳亭種彦荻生徂徠、、など約60件を詳述している。これはいつか読んでみたい。

また精力絶倫の 外骨は、房子、八節、末知、和子、能子など多くの女性と関係しており、結婚は正式には何回になるのかこの本を読んだだけではよくわからない。子どもには天から授かったとして「天民」と手なずけているのも外骨らしい。

15歳の少年の頃から新聞、雑誌の収集癖があり、読み終えた新聞や雑誌を1ページずつシワを伸ばして保存していた。その結果、明治期の新聞50,000枚、雑誌2万部510余種、単行本1500冊を中心に明治新聞雑誌文庫東京帝国大学に創設された。博報堂の創立35周年の記念事である。外骨は61歳でその主任になった。その仕事が明日の新しい日本を作る源泉になるとして、その後も資料収集の旅を続けた。83歳の外骨は心血を注いだ明治新聞雑誌文庫をようっやく引退する。それは生涯をかけた仕事であり、墓標に変わる仕事になった。1955年、老衰で89歳で没している。墳墓廃止論者の墓は東京駒込の染井霊園にある。実にあっぱれな奇人の生涯だ。