「幸福塾」:半藤一利。松浦静山。末弘厳太郎。桐生悠々。塙保己一。歌川広重。

「幸福塾」は月1回で継続中。今回はコロナなどでの欠席、後半からの参加者が多いということで、急きょ内容を変更した。

半藤一利松浦静山。末弘厳太郎桐生悠々塙保己一歌川広重

そして、新しい本の企画の構想を語り、塾生の意見を聞いた。参考になったが、これに関する感想は、今の時点では公開はせずにカットしている。

以下、塾生の学びから。

  • 先生配信のブログからの話題ではこちらも著名人オンパレード。半藤和利:文芸春秋退職後に昭和史研究を進め、実年期で開花。松浦静山:15歳の若さで藩主、江戸詰めとなるが窓際族に、46歳で引退後執筆に専念。塙保己一:不器用だったが、他人の音読で暗記が得意で出版に生き最高位に。末広厳太郎:絵に描いたような超エリートの経歴だが水泳・体育連盟理事を歴任し選手養成の極意を説き、休息・メンタリティに迄言及する点は現在水準をもリード、ロジカル。桐生悠々:戦争の為に着億の予算を組む国家と教育の為の百億の予算を組む国家と、いずれが将来性ある課は問わずして明である」…今でも全く色褪せない真理!…。あまたの偉人達を『鳥瞰図』に当てはめファイリングしていくと壮大な人物百科事典が出来上がりそうでこちらもワクワク致しました。さて今週の当方気付きですが、東京新聞で「絵手紙」の創始者である小池邦夫さんの訃報が目に留まりました。そういえば生前父母へ絵手紙のレクチュア本を送ったっけ。果たして確認するとその本はその小池邦夫さんと奥様の恭子さん共著でした。「下手で良い、むしろ下手が良い」「純粋な目で・心を込めて描く」といったスタイルで、地元狛江は勿論各地で絵手紙を指導。現在全国に200万人の愛好者数を誇っているとか。絵手紙の本を開き、ちょっと前を思い出し懐かしむことができました。次回も宜しくお願い致します。有難うございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は途中からの参加となってしまい失礼いたしました。前半の話が伺えず残念でした。
  • 本日もありがとうございました。「野田一夫の大いなる晩年」が出たと思ったらもう「実年期の肖像」がまもなく出るとか。久恒先生のお仕事の速さにはいつもながら驚くばかりです。最近のブログの中から5人、紹介していただきました。半藤一利氏は「日本の一番長い日」などで有名ですが62歳で歴史探偵団を始めたこと、その前は蕎麦屋で毎月講演をしていたことが印象に残りました。まさにこういった地道な活動の結果だと思います。松浦静山は「甲子夜話」を正続各100編と切りのいい数で出したのがすごいと思います。塙保己一は盲目だったが「誰でも古今の書物が読めるように」という使命感で「群書類従」をまとめたこと、末広厳太郎は本職以外でも現代や他の種目にも通用する「水泳の練習十則」をまとめたこと、桐生悠々は軍部の弾圧にも負けずに書き続ける「義務の履行」をしたこと、歌川広重は「江戸のカメラマン」として葛飾北斎と違って写実的な絵を描き続けたこと。どれも感動的でした。今後も「幸福塾」では実年期を充実させた人々を取り上げるそうで楽しみにしております。しばらくこれで続けるなら、「実年期の肖像」と副題を付けて広く誘うというのもよいのではないか、と思ったりしました。
  • ブログからのお話も、広重と北斎は、ぜひ比べてみてみたいと思いました。垣内さんの絵手紙のお話も良かったです。下手でもよい、下手がいい。というのに励まされます。自分なりに納得したものを書くのが楽しさにつながりますね。本日もありがとうございました。

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 「名言との対話」9月13日。乃木希典「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我は行くなり」

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日1849年12月25日) - 1912年大正元年)9月13日)は、日本武士長府藩士)、軍人教育者

日露戦争の英雄・乃木大将を祭った神社は全国にある。下関、萩、京都、名古屋、北九州、熊本、仙台、香川、台湾、東京と、縁のある土地には必ず乃木の神社やゆかりの施設がある。

2007年、0歳から16歳までを過ごした山口県下関の長府にある質素な家を従えた乃木神社大正8年12月竣工)を訪ねた。この長府という町は白壁の武家屋敷がのこる町並みが見事だ。乃木神社は学問の神様となっているが、子供の頃の母のしつけに従った挿話の数々や学習院の院長として多くの若者の育成に当たったからだろう。「幸を招く基は朝晩に先祖に向かひて手をば合せよ」は乃木家の家訓である。乃木旧邸(長府宮の内町)は6畳、3畳、押入れ、2坪の土間という実に小さな家だった。家具がほとんどない。実にシンプルな生活だ。

乃木将軍謹書の「智 仁 勇」(「智--ばかげた遊びや、いやしいことをせぬよう 恩義をわきまえ目上の人をたっとぶよう。仁--よわいものいじめをせぬよう 人の上をおもいやるよう。勇--こぜりあいをせぬよう づるけぬよう こうと信ずることはあくまでもしおうせるよう 又強きものとてもわけもなく恐れぬよう」。これは現在、長府豊浦小学校の教育目標となっている。

2005年に訪問した栃木県那須乃木神社にある乃木記念館には「忠孝」と達筆で書かれた乃木の文字やこの那須の地に20年住みながら農業に励んだ「農事日記」が展示されていた。国の富強の大本は農業にあり、路傍に黄金が満ちるといった詩も素晴らしかった。ロシアの敵将ステッセル将軍らとまみえた有名な水師営会見での打ち解けた写真。神社内には53坪の「乃木希典那須野旧宅」が残っていた。

2004年12月から2005年5月にかけて日露戦争100年祭が行われている。2004年12月5日は203高地陥落100周年、2005年1月2日は旅順陥落100周年、3月10日は奉天会戦、5月28日は日本海海戦。この100年祭は「日露両国の殉国者を共に慰霊」という趣旨だった。

『名将乃木希典』(桑原巌)という書物を神社で購入する。副題には「司馬遼太郎の誤りを正す・附 司馬遼太郎氏を偲ぶ」とある。司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』では、乃木希典の軍事的無能を描いてあるが、本書を読めば「司馬氏の著述が如何に事実を誤解し、偏見独断に満ち満ちたものであるかを、容易に了解されるものと確信する」とある。司馬遼太郎が生前、『坂の上の雲』のテレビ化に諾と言わなかったのも記述の誤りによって人を迷惑をかけると感じたからだという。

明治天皇崩御で自刃した時の「遺言條」(大正元年9月12日夜)では第一から第十までの遺言が書き連ねてあり、宛名は妻の静子だった。この時点では静子は殉死する予定ではなかったのだ。

軍神とあがめられた乃木の葬儀には20万人という前代未聞の人々が弔問に訪れたという。十文字に割腹、妻静子が護身用の懐剣によって心臓を突き刺しでの自害を見届け、その後自刃し即死。夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書いた。葬儀には外国人も多く参列し「世界葬」ともいわれた。

冒頭に掲げた歌は乃木希典の辞世の歌である。この殉死に対しては内外から賞賛と批判があった。乃木希典は明治を創った最後の武弁であった。明治天皇と乃木の死によって明治という偉大な時代が終わったのだ。

 

参考:『名将乃木希典』(桑原巌)