「探検」と「予言」ーー松浦武四郎。伊能忠敬。間宮林蔵。最上徳内。柳田国男。白瀬矗。植村直己。今西錦司。そして森嶋通夫。梅棹忠夫。

9月17日(日)の日経新聞に、松浦武四郎のことが大きく紹介されていた。松浦は幕末の探検家で、北海道の命名者である。北加伊道という名前を提案した。それは、「日本の北にある古くからのアイヌの人々が暮らす広い大地」という意味である。それをもとに現在の北海道という名前が生まれたのである。この鉄の脚を持つ人は、日本中を歩き続け、そしてそこで得た見聞を詳しく書き続けた。この人のことは2011年に京橋のINAXギャラリーで、「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展で知った。

優れたフィールドワークと報告があって、初めて探検の名に値する。松浦武四郎はまさに探検家として、『近世蝦夷人物誌』など膨大で詳細な記録を残した人である。

松浦は蝦夷の内陸を探検した人である。蝦夷地を探査した探検家をながめると、「伊能図」の伊能忠敬は南部、間宮林蔵は北部、「今年こそえぞ人ともつき見れば こさふきもせめ心ゆるして」とうたった最上徳内樺太オホーツク海をターゲットとしたということになる。彼らはみな優れた報告書を残している。いずれもロシアの脅威が迫っている危機感があったのだ。

日本列島の民俗をテーマとした柳田国男から始まる民俗学の学者たちも、フィールドワークと記録を重視した探検家である。

探検家は「極」に憧れる。南極は「蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到の境を跋渉したい」と言った白瀬矗だ。山は2000年の朝日新聞でこの1000年で冒険家・探検家の1位にあげられた植村直己だ。「二番煎じでないことをやり続けたい」との考えだった。

また日本から海外に向かったのは、「今西自然学」を創始した今西錦司ら京都学派の学者たちをあげることができる。今西は「終始一貫して、私は自然とは何かという問題を、問いかえしてきたように思われる」と語っている。今西の弟子たちは、ニホンザルから始まって、アフリカのゴリラという類人猿の世界を探検している。

海に出たのは、堀江謙一だ。一人ぼっちで太平洋をヨットで渡ったが、サンフランシスコでパスポートを尋ねられたときだったか、「コロンブスもパスポートは省略した」と粋なことを言っている。

こういう志が高く、行動力のある人たちの長い列が、日本を形づくってきた。

さて、未来の日本、21世紀の日本を予言した二人の学者の言葉を味わってみよう。

まずロンドン大学の経済学者・森嶋通夫教授(1923年7月18日 - 2004年7月13日)「人口の量と質が決まれば、それを使ってどのような経済を営めるかを考えることができる。重要なのは経済学ではなく、教育学である」とし、「戦後教育は価値判断を避けて知識を詰め込んだ。結果として価値判断を行う能力を失い、意志決定力も弱くなった。2050年の土台である人間は劣化しているだろうから日本は頂点から崩れていく可能性が高い」。

次に国立民族学博物館を創設した文明学の梅棹忠夫1920年 6月13日 - 2010年 7月3日)は1995年にこう予言している。21世紀は、明らかに情報の勝負です。情報戦争でどこが勝つかという話だと思います。、、日本文明は今が絶頂期ではないかと思っております。このままでは日本は情報戦争に完璧に負ける。情報戦争に負けたら、技術も負ける。科学も負ける、全部負けです。21世紀は科学技術の勝負ですが、それを支えているのは情報なんです。大変残念なことですが、やっぱり駄目になるでしょうな。、、なんとかしないと、このままでいいと思ったら大まちがいな状態です。ひどいことになります。20世紀の惰性で、生産、生産と言っていますが、次の時代の手立てをしておかないと本当にひどいことになる」。

1995年時点が工業時代を席巻した日本の絶頂期で、次の情報の時代の準備が遅れており、21世紀は「本当にひどいことになる」と予言した梅棹忠夫。人材の量だけでなく質の劣化が始まっているとし、価値判断や意志力の衰退で、日本は頂点から崩れていくと予言した森嶋通夫

21世紀の日本の姿はそのとおりになってしまった。

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午後:新宿でB出版の社長と打ち合わせ。本の企画がいくつか浮上。

中村屋サロン美術館:戸張孤雁の芸術展。

夜はズーム:デメケン。力丸。

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「名言との対話」9月25日。五代友厚「仕事は命がけや。死んでも仕事は残る。そういう仕事をせなあかん」

 五代 友厚(ごだい ともあつ。天保6年12月26日(1836年2月12日--1885年9月25日)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての武士実業家 享年49。

鹿児島市出身。薩摩藩武士の次男。15歳、藩から長崎海軍伝習所の練習生に選ばれ航海術を学ぶ。1865年に年寺島宗則とともに、後の初代文部大臣森有礼など14名の留学生を率いて、イギリスに渡る。帰国後、明治新政府の参与兼外国事務掛となり、会計官権判事。

その後、1869年に下野し実業界に転じる。1876年に堂島米商会所、1878年に大阪株式取引所(現大阪取引所)を設立、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立し会頭。1879年に商業学校の必要性を痛感し大阪商業講習所(現大阪市立大学)を創設。

また住友金属工業商船三井のもとになった会社も設立しているなど、明治初期に瓦解寸前であった大阪の当て直しをはかり、大阪経済の恩人と呼ばれるほどの活躍だった。1885年に新築した中之島の自宅は、現在の日本銀行大阪支店になっている。

薩摩出身の五代は薩長土との広い人脈と信用があり、1875年には大久保利通と、下野した木戸、板垣の間をあっせんした大阪会議を成功させてもいる。

以下、五代の言葉。

  • 「自分より地位の低いものが自分と同じような意見なら、必ずその人の意見として採用すること。」
  • 「勝たなあかんで。負けの人生は惨めや。負けたらあかん、他人やない自分にや。」

「地位か名誉か金か、いや、大切なのは目的だ」という五代友厚は、死んでも残る仕事として、大阪経済の近代化という大きな目的に立ち向かった。「死んでも五代の築いた大阪は残る」と語っていた。東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称され、歴史に名を刻んでいる。

後に残る仕事をしようとしているか、そして自分に負けずに達成したか、それが問題なのだ。五代友厚の生き方と残した「仕事は命がけや、、」の言葉には、迫力がある。

「命がけ」という言葉は最近はあまり聞かなくなった。この言葉を使った例をランダムにあげてみよう。鈴木修「軽自動車の電動化を命がけでやる」。棚網良平「ショートパットは命がけで打て」。沢田政廣「人間というものはどんな場合でも、自分を見限ったらもうそれでおしまい。命がけになれば、どんなことでもできる」。島岡吉郎「命がけで当れ」。淀川長治黒澤明はどんな場合でも命がけで撮ってるね。あの齢になって。まだ撮ってるから、86でも映画つくるんだね。偉い人だ」。ロッキー青木「ビジネスで成功するのも、冒険で成功するのも、つきることは同じだと思う。それは「夢を持つ」「手段を徹底的に考え抜く「命がけでやる」の3つである」。大川功「新しい産業には、必ず『予兆』が「あるという。その『予兆』をのがさずにとらえ、これを命がけで事業化しようとする人に対して、天は『時流』という恩恵を与え、そして、『使命』という社会的責任を負わせるのだと思う。私の人生は、それに尽きる」。実相寺昭雄「おれたちは空想に命がけなんだからさ、あほなおとなといわれようといいじゃねえか」。白洲正子の「今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう」。

命をかけても命まではとられない。命がけでやることを、ライフワークというとしておこう。