10月の「幸福塾」のテーマは「実年期の肖像」ーー今も活躍を続ける著者編、


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10月の「幸福塾」は、「実年期の肖像」。今も活躍を続ける物書き編。

和田秀樹斎藤孝。樋口裕一。野口悠紀雄。加えて外山滋比古本多静六竹内均

最後のChatGPTに書かせた小説と映像が、自身が勤務する介護施設の入居者の心を癒しているという発表は素晴らしかった。感動した。ある塾生の学びにあるように、まさに「テクノロジーは人を幸せにするために存在する」のだ。

以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。本題に入る前の近況も非常に役に立ちます。音声入力、まだ使っていませんが使いこなせるようにしたいと思います。「実年期の肖像」は11日にAmazonで予約注文しようとしたらまだ受け付けていなかったので12日以降にまた注文します。本日のテーマである、現役(またはごく最近亡くなった)で著作を多く書いている人たちの仕事ぶりが次々と紹介されました。「映画をつくるため」とか「豪邸を建ててしまったため」とか「子女の音楽活動のため」に稼ぐ必要がありひたすら本を出し続けている人もいるという実態には驚きました。それにしても怒濤の仕事量どころか常識をはるかに超えた執筆量。起きてから寝るまで、ひたすら書き続けているというのには全くまねできない、というかそうはなりたくないと正直思わせられます。 登場した方々は、ほとんど若い頃から著書に親しみ影響を受けてきました。野口悠紀雄氏の角2の封筒に入れて分類整理する方法や独特の手帳とか、竹内均先生が40年前の通信高校講座「理科Ⅰ」で理科の全分野を解説されたこととか。偶然ですが野口氏の「プア・ジャパン」をつい昨日、雑誌の書評候補として注文したところです。外山滋比古先生が92歳で書かれた本がベストセラーになっているのもすごいですね。「思考の整理学」はいまだに学生の間でベストセラーだし。偉人の条件として、死後も長く影響を与え続けた人、とありますがまさにぴったりだと思います。最後の松本さんのお話とYoutubeもすばらしかった。生成系AIの活用がもっぱらビジネスなどで語られていますが、高齢者の楽しみや生きがいをもたらすということはぜひ多くの人に知ってもらいたいですね。テクノロジーは人を幸せにするために存在する、というのを実証しています。
  • 本日も幸福塾に参加させていただき、ありがとうございました。久恒先生、そして皆さまのおかげで、今日も有意義な時間を過ごすことができました。 今日は、多くの本を書かれた方々が紹介されました。私が書店などで目にしたことのある方も何人か含まれていました。本日紹介されたどの方も、多くの著書を出版し、時間を惜しむことなく執筆活動を続けていらっしゃることに、私も大変驚きました。私自身も、何か一つでも実践できるよう努力したいと思います。 特に印象深かったのは、科学雑誌「Newton」の初代編集長を務められた竹内均先生のお話です。ニュートンは以前から愛読しており、記事の感想文を提出して賞品の絵葉書をいただいた経験もあります。そのため、竹内先生の努力を改めて知ることができ、大変感動しました。  幸福塾の最後の方で私から近況報告させていただきました。現在勤務している介護施設では、レクレーションの一環として、2週間前に初めてチャットGPTで作成した数ページの短い物語をご利用者様に読んでいただきました。特に読書好きな方々から喜んでいただけました。引き続き物語作りを続けていく予定です。 幸福塾は毎回参加する度に新たな気づきや発見があり、皆さまと感想を共有することも大変楽しいです。次回も楽しみにしております。
  • 本日もありがとうございました。今回は、思っていた印象と違う方々ばかりでした。
    やりたいことがあって、そのために、本を書くという仕事を来るものは拒まず受けて、淡々と、あるいはそれを愉しんで取り組んでいらっしゃる方々のお話でした。まず、本を書く仕事が来るようになるまでが大変だったのではないかと思います。竹内均さんの、「仕事が楽しみならば人生は楽園。前進あるのみ」は、良い言葉ですね。よくわかります。楽しいから一日中仕事をしている、よいですねぇ。Mさんの動画、すばらしかったです。画期的ですね。次回作楽しみです。 次回もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、幸福塾。今回は生憎と社業の為大幅遅刻致しました。可能な限りとったメモより。本多静六 1866年8月11日 - 1952年1月29日 林学者、造園家、公園の父。毎日物書き、370冊、87歳で没、著作を積み上げるとご自身の身長と同じ高さに。竹内均 1920年 7月2日 - 2004年 4月20日)物理学者(地球物理学)。 東京大学 名誉教授 。 飴色のメガネ、トレードマーク。テープレコーダで口述筆記による著作。300枚/日怒涛の執筆ペース、前進あるのみ。外山滋比古 1923年 11月3日 - 2020年 7月30日 英文学者 、言語学者、評論家、エッセイスト、文学博士、自分が本当に面白いと思うことを探そう。何の役にも立たない、他人から見たら馬鹿みたいなことでも、好きで活力のようなものが湧いてくる対象を見つけよう。和田秀樹  1960年 6月7日 - 大阪府 出身の 評論家 (教育・医療、政治・経済)、 精神科医臨床心理士 、 映画監督 、 小説家  、幅広い活躍分野。斎藤孝 1960年10月31日、教育学者。明治大学文学部教授。野口悠紀雄 1940年12月20日 経済学者、元経済官僚、経済評論家、やらなければならぬ、余計なことは考えない。スキで書いているか?…No…生活の為に書いている。何かに追われている。編集者からの依頼で書く、来た球をすぐ打ち返す感じ。滝沢馬琴 1767年 7月4日ー1848年 12月1日 江戸時代後期の読本作者、目が見えなくなっても著作、口述筆記、息子の妻に勉強させ、書かせた。手段は柔軟に選択。…数多くの著作を世に送り出した巨人たちを通じて感じたポイントは①幅広い活動分野(引き出しの多さ)、②怒涛の執筆量、③継続。特に②③は「好き」で書いているわけではなく「生活の為」に書き続けているという野口悠紀雄氏の言葉は意外でした。編集者のあらゆる執筆依頼にこたえる(来た球をすぐ打ち返す感じ…だとか)為に勉強する→知識が広がる→広がった知識同士が共通項で繋がる→世界観が生まれる→視座が高まり新たな分野で活躍といった、必要に迫られ着手した新分野で新たな魅力を発見し取り込み成長していく、といったポジティブな過程をイメージする事が出来ました。またこれを成す為に大事なポイントは、a) 沢山の「引き出し」を満たす原動力となる「好奇心」、b) 「怒涛の仕事量」を支え続けるカラダ・ココロ両面での健康維持、c) 岐路に立たされても方針転換できる柔軟な思考…かと思い至った次第です。偉大な巨人たちの足元にも及びませんが、今後の自分の生き方に大いに参考にしたいと思いました。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 今回は、現役で多くの著作物を出している方(残念ながら最近亡くなった方を含む)のうち、7名(和田秀樹斎藤孝、樋口裕一、野口悠紀雄外山滋比古本多静六竹内均)分の解説がありました。それぞれの解説を聞いている中でふと思い出したのは、本日の前半でご紹介のあったブログ「蓋棺録 加藤秀俊」の中にあった加藤氏の言葉。「年月は恐ろしい。、、、蓄積は貴い。、、大事なことは、その蓄積を自分の力でつくるということである。自力で積み上げていくことである。、、コツコツと蓄積していくこと---そのプロセスが貴重なのだ、と私は思う。」でした。7人の方々は、それぞれが興味関心をもったことをコツコツと本に著してこられました。その数は膨大で、読者もたいへん多い。また、テレビやラジオに出演されたりしていますから、読者である私たちはそこからも学び、追体験したりしています。 本を書くために著者が費やした時間は計り知れませんが、完成作品はその後、それ以上の長い時間、いろんな読者に伝わっていきます。本を書くことの意義を改めて知るとともに、私は読者として、著者の貴重な時間を思い描きながら読むということをこれからしていこうと思いました。
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    久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は、現在現役で(故人になられた方もいらっしゃいますが)たくさん本を書かれている7名の方の紹介でした。具体的には、和田秀樹さん、斎藤孝さん、樋口裕一さん、野口悠紀雄さん、外山滋比古さん、本多静六さん、竹内均さんの7名の先生方。 書店でも多くの著作を目にし、身近に感じます。共通しているのは、大量の著作を書き続けている(書き続けていた)こと。興味深かったのは、「本を書きたい」という気持ちが大量の著作を生み出す、ということはもちろんありますが、他のやりたいことのために必要があって書いてきた結果、多くの著作に繋がったという話や、書いて欲しいとの依頼を打ち返すことで多くの著作が生まれていったという話。本を書き続けるということには、意欲に加えてそれを支える他の力も働いているように感じました。また、竹内均さんの「あるテーマに関して3-4枚の断片を積み上げていく。100集まれば著作となる。」「売れる売れないに関係なく、自分の勉強のために原稿の形でストックしていくのである。」という言葉は、とても励みになる言葉として印象に残りました。それにしても、本を多く出版し続けるということは、圧倒的な仕事量と体力と精神力、そしてそれを支える何か(情熱?)が必要なのだと改めて感じた次第です。

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「名言との対話」10月11日。渡辺崋山「大功は緩にあり 機会は急にあり」

渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日1793年10月20日) - 天保12年10月11日1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士画家

三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。モリソン号事件で幕府を批判した「慎機論」で蟄居を命ぜられ、後に自刃。

崋山は、1万5千石という小藩の家老として飢饉を予測した施政などで大きな成功をおさめている。また世界の情勢に通じるために蘭学者たちとの交流も深かった。そしてライフワークであった絵画では当代一流で数々の名画を遺している。肖像画は特に優れていた。藩士としての重責を担いながら、学者や画家としても活躍した渡辺崋山は、”マルチサラリーマン”のかがみといえる。ただ彼も、才能を開花させたのは人生の後半だ。
2時間単位のムダのない生活スケジュールは、今でも参考になる。行動が制約されていた時代、メモやスケッチを多用して効率化を図るなど、時間の使い方にたけていた。睡眠時間は3時間、不眠説もあるぐらいで、まさに刻苦勉励型の努力家だった。

午前4時起床。前日の復習など勉学に励む。午前6時〜子どもへ手習いを教授する。午前8時〜学問を講義する。午前10時〜絵を描く。正午〜登城し、藩士としての仕事に励む。午後2時〜引き続き、藩務に励む。午後4時〜模写をする。午後6時〜詩や文章などの勉強をする。崋山は1日を2時間単位で考え、スケジュールを立てていた。睡眠時間は3時間程度。

崋山には名言が多い。「眼前の繰廻しに百年の計を忘るるなかれ。」「西洋が恐ろしいのは、雷をきいても耳をふさぐことを第一の悪と考えることです。」「一人にても餓死流房に及び候わば、人君の大罪にて候」

渡辺崋山については、いくつか縁があった。その都度、人物像に焦点が絞られてきて、しだいに鮮やかになっていった。こういう理解の仕方が、人物論の楽しみだ。以下、記す。

2005年。愛知県田原市で講演をした後、田原市博物館渡辺崋山記念館)を訪ねた。2歳のときに備前池田候の行列から辱められた崋山少年は殿様と対等に話せる人物になろうと学問の世界で身を立てることを決意する。崋山は藩士として有能で後に家老職にのぼる。暮らしを支えた内職の絵の才能も素晴らしく、画家としても大成する。絵は谷文晁に学んだ。そして蛮社の獄の原因となった「慎機論」の著述で知られるように当代きっての蘭学者でもあった。藩士・画家・学者という3つの顔を持つ崋山は、刻苦勉励型の努力家だった。「日省課目」という一日のスケジュール表をつくっている。それによれば、朝は午前4時に起き、前日の復習、学問、6時には子どもへの教授、8時には講義、10時には絵を描く。正午は登城し藩士としての仕事、2時からも同じ、4時には模写。午後6時からは詩、文章など。2時間を単位として生活のスケジュールをつくっている。睡眠時間は3時間というスケジュールだった。いつの時代もマルチに人生を生きようとすると時間の捻出と効率的な仕事のやり方が大切ということだろうと、崋山の人柄に共感を覚える。崋山はスケッチやメモをとるという方法を用いていた。崋山の優れた観察眼の秘密はこのスケッチやメモにある。

「商人八訓」には、「先ず朝は召使より早く起きよ」「十両の客より百文の客を大切にせよ」「買い手が気に入らず返しに来たらば売る時より丁寧にせよ」「繁昌するに従って益々倹約をせよ」など、商売のコツをしっている観察に優れた崋山の姿が浮かぶ。大坂商人との外交にあたっての「八忽の訓」も面白い。「眼前の躁廻しに百年の計を忘るる勿れ」「前面の功を期して後面の費を忘する勿れ」

40歳で家老になった崋山は、農業や海苔の生産などに励む。報民倉という米の備蓄のための倉庫をつくり、その米を後の天保の大飢饉の時に放出し、餓死者がなく幕府から表彰もされている。紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画助郷免除なども解決している。崋山の蘭学を通じて外国事情に明るかった田原藩は軍備の近代化にも成功していた。絵画には遠見番所という灯台も設置した。

崋山は難破した漁民を届けようとしたモリソン号を幕府が打ち払った事件を「慎機論」で批判したという罪で、「戊じゅつ夢物語」を書いた友人の高野長英(1804年生まれだから崋山より11歳年少)らとともに捕らえられる。この蛮社の獄は、無人渡航計画のうわさから出たもので10数名が捕らえられた。長英は永牢、崋山は蟄居を申しつけられる。「慎機論」では五大州のうちアメリカ・アフリカ・オーストラリアはヨーロッパの植民地となり、アジアでも独立国はペルシャ・中国・日本のみであり、その中でも西洋人と貿易などをしていないのは日本のみであると書いている。

働き者の崋山は、蟄居の間も農業とともに絵にも力を入れる。千山万水図、月下鳴機図、虫魚帳などの名作もこの間に描いたものだ。ところがこれが「罪人身を慎まず」と悪評になり、死を決意する。「自決脇差」がちょうど展示してあった。墓には「不忠不孝 渡辺登」と書く。君主への不忠、親に先立つ不孝をしたとの意である。崋山は登(のぼり)という名をもたっていた。

画家としての崋山は、線を主体とした東洋画に、立体・質感・遠近などの西洋画の手法を取り入れている。一掃百態図などは庶民の生活を描いた動きのある名画である。両国橋図稿など動きのある風俗描写も素晴らしい。また、人物画に優れ多く描いている。写生の中に、人物の性格も表現した。崋山と椿山(弟子)の人物画の企画展も開催されていた。鷹見泉石、佐藤一斎、林大学頭述斎、崋山像(椿山画)、ナポレオンなど多くの優れた人物画をみる。崋山の先生でもある佐藤一斎の絵を興味深く見た。崋山は19歳の時に学んでいる「年を重ね穏やかになった一斎」と解説がある。一斎夫妻像は夫80歳、妻73歳のときの全身像である。刀、扇子、脇差、烏帽子なども細かく描かれてある。一斎は有名な儒学者で、名言が多く、西郷隆盛なども一斎に大きな影響を受けている・「少にして学べば壮にして為すことあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べばすなわち死して朽ちず」という私が一番好きな言葉は、この一斎の言葉だ。一斎は1772年生まれで88歳の長寿を全うしている。美濃岩村藩の出身で34歳の時に幕府の昌平坂学問所塾長になっている大儒である。

田原藩上屋敷は、皇居に面した今の最高裁判所の辺りにあった。そこで崋山は江戸家老として過ごしている。蟄居していた家が崋山を記念した公園の中にある。崋山の像が立っていた。

2007年にドナルド・キーン渡辺崋山』(新潮社)を読んだ。興味深い記述に満ちている。角地幸男という人が訳者として出ているから、キーン先生は英語で書いたのだろう。一流の画家、トップクラスの蘭学者、老練な家老としての政治業績、時間を惜しみ勉励する気力などマルチ人間・渡辺崋山の生涯は魅力に満ちている。

2008年。京都で藤原勝紀先生の主催するラウンドテーブルで、「偉大な人物像の世界に想いを馳せて」というタイトルで発表したとき、教養論の碩学竹内洋先生次のような好意的なコメントをいただいたことがある。「偉人伝。渡辺崋山の絵本。人物伝を学ばなくなったのは不幸だ。マルキシズムの悪影響は社会科学を法則科学にしたこと。人間のない歴史。人物で時代を語る。大宅壮一の人物評論。九鬼隆一の評伝の書評。二流人物評伝。異人伝。前尾繁三郎、学問の下流化」。翌年の2009年にはと野田一夫先生の事務所で歓談し、3人で食事をした。

2011年。下北沢の本多劇場の「滝沢家の内乱」の千秋楽をみた。瀧澤馬琴を描いたこの芝居の中で、渡辺崋山の名前が何回もでてきた。息子の宗伯の友人であり、また馬琴とも友情がある。崋山は優れた画家であると同時に、優れた人物であることがよくわかる内容になっていた。

崋山が自刃して1年後には、幕府は打ち払い令を緩め、10年後にはいくつかの国と国交を持ち、そして27年後に明治維新となるから、時代を先駆けた人物だったということだろう。

小藩をひとりで切り盛りした辣腕の家老・当代きっての蘭学者・後世に名を残す優れた絵描き。江戸のマルチ人間の渡辺崋山には多彩な名言が数多くある。その中でも冒頭に掲げた「大功と機会」に関する言葉は素晴らしい。ゆっくりとじっくりと時間をかけなければ大きな功績は成就しない。時代の急変はピンチではなくチャンスがある。平穏な時期にはじっくりと仕事をしよう。そして風雲急な時代に成ったら絶好の機会でり思い切って行動しよう。