寺島実郎の「世界を知る力」ーーシンガポール報告。「青藍工房 Parisの予感」展。「アートアクアリウム美術館GINZA」

寺島実郎の「世界を知る力」(5月)。

  • 日本は閉塞状況の中にある:円安の進行。融解する政治状況。
  • 日本経済:アベノミクスの呪縛からの脱却が必要
  • アベノミクスの実態:日本の産業は2割圧縮。国民は窮乏した(給与・消費はダウン。輸入インフレ)。
  • 経済・産業の再生:「豊かさの追求」から「国民の安全と安定」へ。イノベーションの鍵は「総合エンジニアリング力」。ファンダメンタルズへの回帰「食と農」「医療と防災」(基幹産業へ)。「人材」(多国籍軍を率いるプロジェクトリーダーが必要)。
  • 大中華圏の中核としてのシンガポール:光「アセアンの真珠」(一人GDP8.5万ドル。多民族共生。外交の中立性)。影「笑顔の北朝鮮」(一党支配)。首相交代でターニングポイントを迎えている。
  • シンガポール2024:大英連邦(ユニオンジャックの矢)と大中華圏の交点、英国のアジア帰り。グレートエスケープは中国をどう変えていくか。日本の存在感の後退(2万人の節税移住者。小売り・外食産業の進出)
  • 日本シンガポール交流史と豊かな国造りからの教訓:アセアンの重要性。公(パブリック)への貢献のための選択と貢献。文化力の劣化をどう補うか)

以下、図メモ。

f:id:k-hisatune:20240520045038j:imagef:id:k-hisatune:20240520045042j:imagef:id:k-hisatune:20240520045106j:image

午後:銀座

銀座かねまつ」の「青藍工房展 Parisの予感」。

f:id:k-hisatune:20240520053635j:image

  • メタモジの浮川初子専務。「空間プロデュース」「青藍と3D文字のコラボ」「日本人のDNA]「ワフリカ」「立体文字」「十二支を古代文字・金文で」
  • トークセッション:日本の藍(ジャパンブルー)とフェルメールブルー(ラピスラズリ)と北斎ブルー(広重ブルー)のベロ藍(ベルリン・プルシアンブルーからベルリン藍と命名)の交流。3D文字がオブジェに。徳島。藍師。漢字は図像・絵。ワフリカ(Wafrica)。文化的精神性。伝統に新しいものを加えて日本と日本人のDNAをとり戻そう。

f:id:k-hisatune:20240520053838j:image

f:id:k-hisatune:20240520053805j:image

MetaMoJiの浮川和宣社長と浮川初子専務と。

f:id:k-hisatune:20240520053648j:image

 

銀座三越の「アクアリウム美術館」を見学。

優美に舞う金魚を使った幻想。生命が宿る美術館。

f:id:k-hisatune:20240520053935j:image

f:id:k-hisatune:20240520053918j:image

ーーーーーーーーーーー

上岡龍太郎さんは「意外と頼りなくて」 ラジオで20年共演した桂雀々さん - 産経ニュース

「名言との対話」5月19日。上岡龍太郎「僕の芸は20世紀まで」

上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年昭和17年〉3月20日- 2023年令和5年〉5月19日)は、日本漫才師司会者、元タレント。享年81。

京都市出身。主に関西で活躍したお笑い芸人で、番組の司会者としても人気が高かった。流ちょうな話術と博覧強記で理路整然と語る。独特のユーモア、鋭い洞察、切れ味のいい毒舌、社会的風刺が含まれておりファンが多かった。

話の入り口には、和歌、俳句、ことざわなどを使う講談調の滑らかで知的な雰囲気を感じさせる話術だった。やしきたなじんとともに大阪を代表するタレントであった。そのため、この二人の名前は知ってはいたが、その芸は身近に感じてはいなかった。

上岡龍太郎は「芸能生活40周年を迎える2000年の春になったら完全に隠居する」と宣言していたとおりの行動をとった。まだ58歳だった。

「僕の芸は20世紀まで」とタレント自身がいうのは珍しい。40年もの間、浮き沈みの激しい芸能界を見事に泳ぎ、スターの地位まで昇りつめた。その間、時代の変遷や社会の変化に対応しながら、大衆の笑いを生み続けた人だ。

長い間、自分を励まし、芸を磨いてきて、これ以上の自己刷新は無理だと判断したのだろう。

現在も大御所として活躍しているコメディアン、俳優、映画監督の道を歩んだ「たけし」、最近は「ブラタモリ」で圧倒的な才能示した「タモリ」、落語を究めるだけでなく、日本全国を歩きまわり人気の人柄が知れ渡った「鶴瓶」などを眺めると、彼らの歴史は、自己革新の連続だったように感じる。いつの間にか、新しい分野に移動していき結果的に幅の広い、そして奥の深い領域にたどり着いている。彼らは学び人である。

上岡龍太郎の場合は、その過酷な成長のサイクルを、人気の低迷という事実を突きつけられてからではなく、また病気のよる断念でもなく、自らの意志で断っている。その「出処進退」の哲学とそれを実践することができたこの人に私は興味を覚える。

引退後の生活をさぐると、ほとんど公式の場には登場せずに、定年後の隠居生活で静かな暮らしを楽しんでいたようだ。

最後の最後まで「芸」にこだわって、それを讃える報道もよくありそれも感動を誘う。一方で上岡龍太郎のスッキリした出処進退の美学にも感銘を受ける。人生100年時代の生き方の一つのモデルのあげておこう。