図解塾:『梅棹忠夫著作集』第7巻「日本史のしくみーー変革と情報の史観」の最終回。

図解塾6期㉘:『梅棹忠夫著作集』第7巻「日本史のしくみーー変革と情報の史観」の最終回。

「日本文明の時空構造」「文明史から見た商業と工業」「昭和と私」の図解をもとに発表と私の講義。やり残した「文明の未来」は都築さんの宿題となった。次回12月20日は、第7巻の総括と、第13巻の予告。

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、皆様、おつかれ様です。本日、図解塾。いつもの様に久恒先生よりブログの話題から近況をお話頂きました。①新刊本『野田一夫の大いなる晩年』の記事が河北新報に掲載。宮城大初代学長をつとめ、昨年9月に95歳で亡くなられた野田一夫先生は、「ラポール」(rapport:人と人との間が和やかな心の通い合った状態にある事、心理学用語、フランス語)と銘打ったはがき通信を75~90歳の間、ほぼ毎週1000人に上る友知人に送り続けた。毎号800字程度に綴られたその言葉は様々な分野の幅広い年齢層の方々へ影響を与えたという、偉大なるライフワークの足跡を後世に残したいという思いで、久恒先生はじめとする「ファンクラブ」が出版を企画したもの。堂々588ページに上るその「大作」には、はがきの収集~編さんは勿論、関係する方々との調整など様々なご苦労が有ったと思いますが出版相成りホッとされた久恒先生のご様子を感じる事が出来ました。同『出版記念会』【知研セミナー12月22日:リアル開催】の告知も頂き、ぜひ参加させて頂きたいと思いました。②雑誌『イコール』、1月発売がいよいよ決定。今後の展開が楽しみ、ワクワク致します。③『名言との対話』:中島敦なかじまあつし1909-1942)漱石、芥川、鴎外、志賀と並ぶ日本を代表する文豪の一人、「人生は…何かを成すには短い」33歳で早世した天才のはかない一言、何事もムダに過ごすな。沢村栄治(さわむらえいじ1917-1944)巨人軍初代エース、剛速球、打者の足元でホップする投球…しかし27歳の若さで戦没、不幸な時代に生きた「名選手」、戦争はすべてを吞み込む悪魔。広瀬淡窓(ひろせたんそう、1782-1856、江戸時代の儒学者「鋭きも鈍きもともに捨てがたし…使い分けねば」(ヒトは大工道具と同じだ、適所適材、人材活用せよ)、同感、「人格重視」。…本日も情報シャワーですっかりウオーミング完了!。さて本題、梅棹忠夫文学全集第7巻「日本研究」「変革の情報史観」の4回目。本日も久恒先生お手書き図メモを塾生が文字起こし~解説、本日も4本。1. 『日本文明の時空構造』:前回図解塾同様、近代日本の礎は明治生まれにあらず、江戸のむかしの体制がしっかり今も息づいていた。a)鉄道路線名:常磐線常陸ひたち:茨木県東部~磐城いわき:福島県東部、宮城県南部を結ぶ)、伯備線伯耆大山[ほうきだいせん]:鳥取県米子市~吉備[きび]:岡山県倉敷市を結ぶ)、尾張一宮…昔の「藩」の呼び名がそのまま現在も使われている。b)城下町(封建都市):行政・商業の中心から商工業の中心へ、帝大・高専が、現在も大学として残る。c)陸上交通:「東海道中山道等の幹線道路、「北前舩」に代表される外洋航路定期便、など…「お前、クニはどこだ?」等という会話は今でも聞かれる。「藩」の概念が今も残っている事、維新の頃、240もの藩がそのまま県となり、合併を繰り返し今に至っている事に、改めて驚きました。2. 『文明史からみた商業と工業』:a) 日本に見る都市と地方との関係が今と昔で構造変化した。むかし地方の農村が経済・資本の基盤だったのが今、都市の商工業が農村を支える形に逆転。b)「総合商社」は昔の武家由来の商隊組織、集団戦で強くなっていった。一方、c) 世界の商人では『個人』間の勝負、「人間観察(洞察)」に代表される「対人技術」の発達が日本の商法(武家・集団)との大きな違い。 3.『昭和と私』(重複したお二人の図解を比較):古代のむかし、中国との関係より日本のアイデンティティを醸成した。当時、中国の属国にならず、独立した関係のままで文化を取り入れ影響を受ける事が出来た。一方、昭和において戦争の企てが大いなる失敗。しかし、壊滅状態から経済発展を遂げる事が出来た…ここで古代の中国との関係の対比で「アメリカとの関係」が明記されるのが自然と考えましたがこの記載が無かったのは少々違和感が有りました。消費地アメリカへせっせとモノ作りに励んでいた昭和時代を生きた梅棹先生の目には、あまりに親密且つ完全一致の方向性だったアメリカの存在は空気の様なものだったのでしょうか、著作に全く登場しないのは意外でした。しかし、時は移り令和の現在、国際政治の舞台におけるなアメリカのリーダーシップは昔に対し大きく減退、日本政府の立ち位置とのアメリカ立場の違いが生ずる中、図の終わりは、今後日本が果たす国際的な責任・役割を明確に世界へ示して行かないと、国際社会から埋没するという危機感で結ばれており、これには全く同感で昭和時代にこれを示された梅棹先生の見識の高さはやはり流石と感じた次第です。プレゼンに触れ、本日も『明確な目的意識を持ったフィールドワーク』への取り組みの意味を強く考えさせられた点が今回の学びとなりました。先述の知研セミナーへの参加が非常に楽しみです。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。


  • 久恒先生、皆様、本日は図解塾ありがとうございました。今日は「日本文明の時空構造」「文明から見た商業と工業」「昭和と私」という3枚の図解で梅棹先生の日本研究の続きを学びました。全体を通して印象深かったのは、江戸時代の幕藩体制の流れが現代日本の行政や教育、産業の中に伏流水のように流れている、ということでした。確かに、地方都市の中心はかつての城下町であったところが多く、何となく旧藩ごとに郷土意識もまとまっているように感じます。また、日本の商業人としてのあり方も、世界比較でみて対人技術に優れた根っからの商人(アラビア人やフェニキア人、華僑やユダヤ人)に比べ、どちらかというとサムライ原理に根差した組織商人であり、もっと対人的商業活動に磨きをかけるべき・・・として、幕藩体制の影響をみる見方もとても面白く感じました。回を重ねてきた日本文明論も次回がいよいよ最終回とのことです。梅棹先生の独自の視点からの文明論の総括が楽しみです。
  • 12月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回は梅棹忠雄先生の日本研究「日本文明の時空構造」、「文明史からみた商業と工業」、「昭和とわたし」について図解にて学びました。「日本文明の時空構造」は、曼荼羅図のような図解で大変わかりやすかったです。「日本文明の時空構造」について11の項目を一枚の図で説明されました。国家と国民、地方自治、藩、国郡の制度が日本の歴史において国家が形成されたり、統治するにあたって重要な要素になっていることがわかりました。また陸上や海運の交通により、地域間のつながることで物流や経済が発展していくことがよくわかりました。日本は二中心国家として関東と関西があるが、うまく日本の国家としてうまく統合されていることがわかりました。 「文明史からみた商業と工業」では、日本は、工業資本主義により、製品が初めは粗悪品だったものが、、高品質になっていくという説明が興味深かったです。日本の商業が、士と商業の結合という考え方が面白いと思いました。日本の弱点は商業で、日本は個人同士の対決より、組織的な商業活動が得意で個人では負けるという考え方も、日本は、「和を重んじる」という文化的背景を考えると納得がいきました。「昭和とわたし」では、昭和時代の日本が世界に果たす役割は、日米同盟の路線と平和国家の路線があることがわかりました。二つの路線は考え方が対立しているようにみえました。これからの日本の果たす役割は、日本は中立的でバランスよく役割を果たすことが、国際社会の中で重要と思いました。次回も楽しみにしています。
  • 久恒先生、みなさま、お疲れ様でした。本日は、「日本文明の時空構造」、「文明史からみた商業と工業」、「昭和とわたし」についてでした。「日本文明の時空構造」は日本を深堀し、キーワードを並べそれぞれに腑に落ちる説明がありました。島国、藩という伝統、地理的なこと、曼陀羅的とおっしゃってましたが、まんべんなく教えていただきました。まさに、外国人に日本を理解してもらうための論文ですね。「文明史からみた商業と工業」では、武、武士、農業、農民、商業、商人の関係と流れがよく図にあらわされ、現代の地方色と重ね合わせると、面白かったです。また、世界と比べ、対人技術が必要だと言っていることが、なるほどと思いました。しかし、身体は小さくても、グループや組織では強い。というのは、スポーツにも言えることかなと思いました。 「昭和とわたし」では、中国の属国ではないが、文化的に影響を受け、明治維新ご中国から離れ西洋に近づき、国際的に孤立し経済的に成功したが、友達がいなく、国際的な責任や役割を果たしていないから、それが今後の課題だ。ということでした。日本研究の最期の節なので、梅棹先生にとってまとめだったのでしょうか。
    次回で、日本研究のまとめとなり、来年から13巻に進むとのこと。また、次回もよろしくお願いいたします。
  • 先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は、梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」の中の「⑫日本文明の時空構造」「⑬文明史からみた商業と工業」「⑮昭和とわたし」について図解で解説がありました。全体を通して感じたのは、日本は島国だったからこそ、個人主義ではなく、「日本人」という意識の元に一つの組織のような、「和」を尊ぶ民族なんだということでした。「⑫日本文明の時空構造」では、日本文明を時間と空間で切り分けて11項目にまとめられていたのですが、曼陀羅のように図解で表されているおかげで、項目ごとに理解することができましたし、現在の日本が諸外国と違った歩みをしているのは、これらの積み重ねがあったからこそのことで、国家のしくみや地方意識などの根底の部分に過去の構造が残っていることにも気づくことができました。「⑬文明史からみた商業と工業」では、特に商業の面で、世界では商人の精神的真剣勝負(商取引)であるのに対し、日本では「士と商の結合」による組織商業であるという違いが、図解による対比のおかげで知ることができました。 「⑮昭和とわたし」では、最後の章にふさわしく、梅棹先生から「国際的な責任・役割の明確なイメージもつこと」という未来の日本へ向けた課題の提示(?)がありましたが、まさに今、おっしゃるとおりこの点で日本は迷走しているのではないかと思いました。次回は日本研究の「⑭文明の未来」と第13巻『地球時代に生きる』の紹介とのことですが、梅棹先生の分析を楽しみにしていますので、引き続きよろしくお願いいたします。

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「名言との対話」12月6日。島津久光「西郷、大久保に騙された」

島津 久光(しまづ ひさみつ。1817年12月2日‐1887年12月6日)は、江戸時代末期薩摩藩国父日本政治家

島津斉興の5男。母は側室のお由羅の方。薩摩鹿児島藩重富領主となる。藩内の派閥の対立があり、お由羅騒動に発展し、幕府の介入があり、異母兄の斉彬が藩主となる。島津斉彬の遺命によって久光の子の忠義が鹿児島藩主となると、本家に復帰して「国父」とよばれ藩政の実権をにぎった。

1862年に兵をひきいて京都にはいり、藩の尊攘過激派を弾圧(寺田屋事件)。また勅使大原重徳を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど、公武合体運動をすすめる。帰途に生麦事件が発生し、薩英戦争に発展する。

維新後、内閣顧問・左大臣に就任したが、保守的意見がいれられず1875年に隠退した。

島津久光は、多くの事件に巻き込まれている。

お油羅騒動。島津斉興は斉彬ではなく、お油羅の子の久光に藩主を譲ろうとする。このため二つの陣営の対立が起こる。斉彬派は切腹、遠投が多数出る騒動となった。英邁であった斉彬を支持する阿倍正弘の助力を得て、斉彬が藩主に就く。久光は斉彬に協力する。

寺田屋事件。京都にいた久光は藩内の尊王攘夷派が寺田屋に集結しテロを企てていることを知り、説得のため部隊を派遣するが、聞き入れられず、斬り合いになる。有馬新七らが斬られる。

生麦事件。久光が江戸から京都へ向かう途中、神奈川の生麦でイギリス人が久光一行の列に乱入したため、護衛の藩士が1人を斬り捨てる。イギリスは犯人の引き渡しを要求するが、久光は拒否。。

薩英戦争。イギリスによる賠償金請求も拒否し、薩英戦争に発展する。薩摩は甚大な被害を受けた。

斉彬を尊敬していた久光は、大久保利通を重用したが、精忠組の頭目的存在であった西郷隆盛とはそりがあわなかった。西郷は久光と会ったとき、「ジゴロ」と言いそれが久光に聞こえた。ジゴロとは田舎者という意味だ。西郷は久光によって2度も遠島の処罰を受けている。このあたりのことは、司馬遼太郎の『跳ぶが如く』などに詳しく紹介されている。維新政府が薩摩の処遇に頭を痛めたのは、西郷、大久保と久光との軋轢があったからである。

久光は大久保に、わしはいつ将軍になるのかと聞いたとも言われている。維新の功労者であった伊藤博文は、久光は西洋流は嫌いであったと観察している。大隈重信は、頑固、我がまま、強情であったが、学問があり、屈服させることはだいぶ困難だったと語っていた。

久光は保守だったから、維新政府の施策に納得できなかった。久光は「西郷、大久保に騙された」が晩年の口癖だった。薩摩という大藩の君主であった島津久光は、下級武士たちがつくり上げようとした国には賛成できなかったのだ。

違った国づくりが行われていたら、久光の役割は異なっていたかも知れない。後の時代からみる評価は一方的であるかもしれないのである。歴史と人物との関係にはそういうところがある。