西本願寺を訪問したことで「親鸞」、本日が命日ということ「谷沢永一」について記す。

親鸞の生涯・教えを簡単にわかりやすく解説【年表付で浄土真宗・悪人正機の思想を理解する】 | まなれきドットコム

京都で「西本願寺」を訪ねた。以下、浄土真宗の開祖・親鸞について「名言との対話」の記述。

親鸞「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の

教行信証」には、「苦しみを抜くことを「慈」といい、楽しみを与えることを「悲」という」「どんな徳もすべて具えているものを涅槃といい、どんな道にもすべて通じているものを菩薩と名づけ、どんな智もすべてを収めているものを仏陀と称するのである。」とある。

幕府が念仏禁止の挙に出たため、20年を過ごした常陸を捨て京都に帰る。このとき62歳。このあとさらに30年という寿命を生きる。75歳で「教行信証」を完成、76歳で「浄土和算」と「高僧和算」、85歳ごろに最後の「正像末浄土和算」を書いている。60代の初めはやっと人生の峠を越えたばかりであり、その後の30年近くは著書の執筆に膨大なエネルギーを注いでいることにも驚く。

宗教家の没年齢という資料がある。イエス31歳。フランシスコ・ザビエル46歳。一遍50歳。道元53歳。カリヴァン55歳。最澄55歳。日蓮60歳、空海61歳。マホメット62歳。ルター63歳。孔子73歳。法然78歳。仏陀80歳。親鸞90歳。親鸞は世界でも稀な長寿であった。

 親鸞の他力本願と日蓮の法華信仰とは正反対の教えである。浄土は死後にあるとしひたすら南無阿弥陀仏を唱えよという真宗。この世を浄土にしようと願い南無妙法蓮華経を唱えながら現世の改革にあたろうとする日蓮宗宮沢賢治とその父の相克はこの点にあった。

親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機説の悪人とは、庶民、つまり小人と考えればよくわかるように思う。君子はもちろん浄土に行ける。そして小人も仏によって救われる。小人を救えない仏教などに意味はないという絶対平等の思想である。キリスト教に近い。浄土の真実の心を意味する浄土真宗は、国家鎮護の仏教から庶民を救う仏教への一大宗教革命であった。

以下、親鸞についてこのブログで書いたことなどを記す。

  • 親鸞は国家鎮護の仏教を「民衆の仏教」に変えた、
  • 「南無」は「まかせる」の意であり、「阿弥陀仏」は、無限の光明と無限の寿命を持つの意である。浄土宗の開祖法然は、南無阿弥陀仏と称え「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏極楽浄土へ導かれる」と説いた。これが浄土宗だ。弟子の親鸞は、阿弥陀仏が「われにまかせなさい。必ず救うぞ」との呼び声であるとし、名文を唱えさえすれば、阿弥陀仏が唱えた人をそのまま救うという意味であると、師の解釈に付け加えた。それで浄土真宗とした。
  • 法然はやさしく、親鸞は深く、蓮如はひろく」
  • 親鸞の他力本願と日蓮の法華信仰とは正反対の教えである。浄土は死後にあるとしひたすら南無阿弥陀仏を唱えよという真宗。この世を浄土にしようと願い南無妙法蓮華経を唱えながら現世の改革にあたろうとする日蓮宗。世界観の違い。
  • 阿弥陀仏の絶対無条件の大悲によって、この身このまま救われる。禅と浄土宗は一つに結ばれるところがある。これが日本的霊性である。 
  • 親鸞「幸福の国を求めていって、もし疑いの網に覆われたなら、また元に戻ってきて、再び永い永い歳月の遥かな旅へでかけよう」(『教行信証』) 
  • 浄土真宗の開祖・親鸞は、29歳で信心を決定。90歳に至るまでを念仏と布教にささげた。テーマは「幸せに生き、幸せに死ぬか」であった。蓮如という人は、15歳でさびさびとしていた本願寺を再建することを決心し、70年かけて極楽浄土のようだといわれるまでに発展させ、85歳で亡くなった。「蓮如言行録」は700余ある。いくつかを挙げると、「聖教読み、つまり仏教学者で仏法を盛んにした者はいない」「なによりも親不孝の者を第一に嫌われた」「坊主、年寄り、長(おとな)に信仰をもたせたい」「自力は念仏で罪を消そうとする。他力は自分を助けてくれる姿に拝むのが南阿弥陀だ」「同じことを何回聞いても、いつもめずらしく思われ、はじめて聞いたように感ずることが信仰のうえでは必要である」、、、。蓮如の和歌には「罪深き人をたすくる法なればただ一すじに弥陀をたのめよ」などがある。永遠に生きられる極楽往生までのこの世をどのように過ごしたらよいかをあらゆる角度から説いた人だ。真宗は「一念発起、平生業成」。生き様のままで阿弥陀仏を信じよ。十悪五逆の罪人、五障・三従の女人のみんなを助けてくれる。悪人正機。悪人とは凡夫のこと、正機とは優先。諸宗・諸法の悪口、守護・地頭のないがしろにしない。「南無阿弥陀仏」の中には、あらゆる教えと諸神、諸仏もすべて籠っているから阿弥陀一仏を頼めば一切に帰依することになる。
  • 歎異抄」は宗派の壁を超えて、多くの人たちに読み継がれている宗教書である。歎異とはどういう意味か。親鸞の弟子の唯円が、師の言葉を記した書が『歎異抄』だが、それを正しく理解せずに間違った解釈をする者、つまり異端を嘆くという意味だ。「善人なおもて往生をとぐ、、、」に代表されるように、日本人の宗教観、倫理観とは相いれない表現が多いと言われている。西田幾多郎司馬遼太郎吉本隆明遠藤周作等々、数多くの知識人や文学者たちが深い影響を受けている。そして市井の人々の人生の指針となっている書である。
  • 法然の弟子である親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」という言葉が有名である。権威を恐れない絶対平等主義である。日本仏教は奈良・平安時代の国家仏教から、鎌倉時代法然親鸞の民衆仏教の全体平等主義へ転換した。この考え方はキリスト教の愛に近い。後にフランシスコ・ザビエルは「日本人には水がしみ入るように理解できる」と書いているのはすでにこういう下地があったからだ。「他の職につくことができないならば、今の身でよいから、ひたすら念仏せよ。阿弥陀如来は、そのような罪深い人たちのためにこそ、仏の本願にすがり念仏せよ。念仏申せば必ず極楽に往生できると教えている」(遊女に諭した言葉)。岡山に法然上人を本尊とする誕生寺があり、訪問すると1147年法然15歳のときに植えたとのいわれのある老木があった。法然の教えが1000年近く経っても生きていると感じた。その法然は、念仏を唱える者、これが私の寺社だと突き抜けた言葉を発している。国家鎮護の仏教から、民衆救済の仏教への一大転換、そして世界に通ずる宗教への飛躍であった。

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本日。

  • 雑誌「イコール」創刊号(5月)の企画で、デジタルファシリテーション研究所の森上さんからインタビューを受ける。テーマは「蜃気楼大学の一日学長」。ーーー群盲像を撫でる。妄想と暴走と奔走。ネーミングから理念へ。科学と歴史。良い加減。最先端と最前線、友情のきずな・あふれる幸福感・知的刺激。未来型プロジェクト。参加の4段階。、、、、。
  • 雑誌「イコール」創刊号の「知研」の見本と「責任号」について、近藤秘書と相談。
  • 岩澤君と人物記念館ミュージアムについての打合せ。構想段階からカタチへ。

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谷沢永一さんが死去 保守派の論客― スポニチ Sponichi Annex 芸能

「名言との対話」3月8日。谷沢永一「男が成長するとは、自分が持たないものをひとつひとつ確認し、次第にあきらめてゆく行程である」

谷沢 永一谷澤 永一、たにざわ えいいち、1929年6月27日 - 2011年3月8日)は、日本国文学者文芸評論家書誌学者。専門は書誌学、日本近代文学関西大学教授。享年81。

76歳の時点で200冊を超える著作を持つ稀代の著述家・谷沢永一は3月8日に81歳で死去している。鋭い舌鋒で文芸評論を書き世の思想家の心胆を寒からしめた人物。入院中も、頭の中で原稿を書いているんやと妻に語っていたほど物を書くことに没頭した人生であった。

改めて経歴を眺めると2011年3月8日に亡くなっている。あの3・11の大震災の直前だったのだ。

私は当初司馬遼太郎作品の名解説者として名前を知ったが、この人の書くものに惹かれてかなりの本を読んでいる。谷沢永一は、司馬遼太郎を日本文学史上の最高の書き手であると断言し同時代に生きてその作品を旬のまま読む至福を感じている。

また肝胆相照らす渡部昇一との共著も多い。座談の名手で、文壇のエピソードを満載した巧みな話術で対談集も多い。「、、開高が「会食をする時に、皆を笑わせる小話をちゃんと用意してこない者は、罰するべきである」と言っていました。、、」。なるほど、それを実行しているということか。

神保町の古本屋で手に入れた『執筆論--私はこうして本を書いてきた』(谷沢永一東洋経済新報社)を改めて読んだ。稀代の著述家・谷沢永一の企画の視点と書く技術を、つまり著作活動を続けるノウハウを公開した本である。
この本は中学2年生からの自らの作品が出来た時の経緯、人との縁、そしてなぜその作品に取り組んだのかという著作史になっている。その過程で手の内を公開しようというもくろみで書かれている。こういうテーマに一般論はなく、具体的な事例に即して書いていく中で、ノウハウらしきものが表現できるということだろう。

「後日に思いを残す未練が生じないように、その時点において思い浮かべるすべてを書き尽くすつもりで集約の気分に発してとりかかる姿勢を常に私は基本方針としていた」「ローマは一日にして成らず。、、、用意なくして行為なし。人のする仕事は準備と用意の結果である」「何が好きかわからぬうちは、一個の生物であっても一人立ちの人間ではない。好きこそものの上手なれ。これ以上に人の生きる道を指し示すのに有効な名句はない」

少年の頃にはあらゆる可能性がある。青年になったときにはかなりの可能性を捨てている。壮年では進むべき方向の選択肢は限られている。こう谷沢のいうように、私たちは可能性を捨てながら人生を歩む。その過程で自分の持っているものの少ないことを確認し、ひとつひとつあきらめて、わずかに残った道を歩んでいく。それは大人になっていく行程なのである。

「才能も智恵も努力も業績も見持ちも忠誠も、すべて引っくるめたところで、ただ可愛げがあるというだけの奴には叶わない」

「学問の道で多少でも事を成した人は必ず良き師に恵まれている」

入院中も「頭の中で原稿を書いているんや。もう単行本2冊くらいはできたやろうなあ」(妻の美智子さん)。座談の名手。宴席でも文壇のエピソードを満載した巧みな話術。

紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)を読了した。この本に記されている著名人の蔵書数が興味を惹いた。井上ひさし14万冊(山形の遅筆堂文庫)。谷沢永一13万冊(関西大学谷沢永一文庫)。草森紳一6.5万冊(帯広大谷短大草森紳一記念資料室)。布川角左衛門2.5万点(国会図書館に布川文庫)。大西巨人0.7万冊。渡部昇一15万冊。立花隆3.5万冊。山下武2万冊。江戸川乱歩2.5万冊。(徳富蘇峰10万冊)。谷沢永一は蔵書数でもトップクラスだ。

昭和4年生れの谷沢永一昭和5年生れの渡部昇一の対談本も読んでいる。『人生後半に読むべき本』(PHP)というタイトルで、2人の稀代の読書家による読書論である。後書きを読むと私の本の担当でもあるPHPの若い編集者の企画だと書いてある。この2人の対談を実際に聞くには楽しいだろうなあ、とうらやましかった。

谷沢は司馬遼太郎の研究者としても著名であるが、司馬は「自分の後を追跡されたくないので、全部(本や資料)を処分してしまって、足跡をくらましてしまう(笑)」と言っている。「戦国物が済んだら、その資料はポイ」らしい。そうか、だから小説を書くたびにトラック一杯の古本類が届くといわれた資料が記念館にも見当たらないのだろう。

渡部は若い頃読んでよかった本も今読むと全く面白くないという経験をあげている。漱石は49歳で亡くなっているから、そういう若い人の人生観察はどうということはない、と述べていて笑わせる。年をとると目が肥えてくるということらしい。

2人とも70代後半なので、こういう人が勧める本はいいに違いない。彼らが勧める本をあげてみる。折にふれて手にしてみたい。

渡部昇一:ハマトン「知的生活」「知的人間関係」。伊藤整「氾濫」。藤沢周平「三屋清衛門残日録」。松本清張「短編全集」。清水正光「評釈伝記小倉百人一首」。高浜虚子「俳句はかく解しかく味わう」。立花隆日本共産党の研究」。松下幸之助「21世紀の日本」。本多静六「私の財産告白」。アレキシス・カレル「人間--この未知なるもの」。幸田露伴「努力論」。吉川英治「三国誌」「新書太閤記」」「新・平家物語」。池波正太郎仕掛人藤枝梅安」。岡本綺堂「半七捕物帳」。「唐詩選」。ヒルティ「幸福論」。伊藤正徳軍閥興亡誌」

谷沢永一:薄田泣菫「茶話」。河盛好蔵「人とつき合う法」。久世光彦「マイ・ラスト・ソング」。和田誠「お楽しみはこれからだ」。野口久光「想い出の名画」。安東次男「完本 風狂始末」。ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」。ブローデル「地中海」。大仏次郎赤穂浪士」。平岩弓枝御宿かわせみ」。徳田秋声「あらくれ」。リップマン「世論」。シュンペーター「経済発展の理論」。高橋亀吉「日本近代経済形成史」。山手樹一郎「短編時代小説全集」

『「谷沢永一 二巻選集下 精選人間通』(鷲田小彌太偏)を読了した。大判400ページの大著。読書通であるから歴史通になり、歴史通の本質である人間通になり、その目で現代を見つめるから時評通になった谷沢永一を魅力を堪能できる快著だ。

谷沢永一は人間としての本物を見分け、そうでない偽物には徹底して650字で弾劾を加えた。谷沢からターゲットにされたら、もはや逃げ道はないと恐れられた。 批判の俎上にのぼったのは、森鴎外山本健吉丸山真男羽仁五郎佐藤信夫、、。

人物論。「才能ある人物のやむを得ない人間的欠点を、鋭く、しかし暖かく、距離をおいて見るのが、本当の人間通ではないか」。「人生の最大の楽しみは、いり豆をかんで古今の英雄をののることだ、と言ったのは荻生徂徠だ」。「明治文学全集」92「明治人物論集」(筑摩書房)。人物論の最高の成果は「日本近代書誌学細見」。

谷沢が優れた学識、生き方で尊敬している人。石橋湛山石橋湛山全集全15巻」(東洋経済新報社)。「湛山を読まずして、日本現代史に口出しするなかれ」。森銑三「明治人物逸話辞典」「大正人物逸話辞典」(東京堂出版)。「明治東京逸聞史」(平凡社)。内藤湖南山本七平開高健

 人間通で人物評論の嚆矢としてあげているのは、以下。三宅雪嶺。「人間観察の透徹において、まさに古今独歩、まったく無類の存在であった」。司馬遼太郎の「司馬人間通史観」「人の生き方を支えた素志に同情し、観察の光源を暖色に調節しながら、躍動する人物の見えない部分を透視するべく務めたのである」。近藤唯之「プロ野球監督列伝」。人物論で、読むべき本がわかった。

ある雑誌で渡部昇一谷沢永一という二人の碩学が対談をしていた。この二人は万般に通じてるのでどの対談も面白い。今回のテーマは「川柳」である。

「俳風柳多留」(柄井川柳)から:子ができて川の字なりに寝る夫婦・おい女房乳を飲ませに化けて来い・米つきに所を聞けば汗をふき・取揚婆(とりあげばば)屏風を出ると取り巻かれ・はげ頭能(よ)い分別をさすり出し・医者衆は辞世を誉めて立たれたり・道問えば一度にうごく田植笠・母の名は親父の腕にしなびて居

「日本史伝川柳狂句」(岡田三面子)から:武蔵坊とかく支度(したく)に手間がとれ・清盛の医者は裸で脈をとり・生つばき吐き吐き巴切て出る・浮草へむだに深草通いつめ・江戸ならば深川辺りに喜撰住み・只ものを人に遣るさへ上手下手・三平二満(をとごぜ)の男ずれぬをとり得にて・口に似ぬ女房ぎらひの子を持(もち)し・内藤はちょいと書物を横に置き・学者虚して曰く少ないかな腎・五戒より和尚厄介保ってる・江戸っ子の生まれそこない金を貯め・金持ちをみくびって行く初鰹・お釈迦様生まれ落ちると味噌を上げ・浪人は長いものから食い始め、、。

「川柳雑俳の研究」(麻生磯次)から:三回目箸一膳の主となり・落ち鳥啼いて女房腹を立て・なぐさみに女房のいけん聞いて居る

渡部「川柳にはユーモアだけでなくウイット(機智)もあるし、サタイア(風刺)もあります」渡部「ユーモアを養うためにも、普段から教養や知性を磨いておくと同時に、心に余裕を持たなければなりませんね」

人間通であった谷沢永一には名言が山ほどある。そのなかで、「男が成長するとは、自分が持たないものをひとつひとつ確認し、次第にあきらめてゆく行程である」はさび効いていて納得せざるを得ない。そういう道程の中でも「運は人の形でやってくる」という言葉にも深く共感を覚える。そしてチャンスはピンチの形でやってくるのだ。私もそういう人生の妙味もわかる年頃になった感じがする。