聖武天皇:「東大寺」と「大仏」を造営した大事業を完遂した天皇。

東大寺を造営した聖武天皇の治世は安定した時代ではなかった。長屋王の変天然痘の流行、藤原広嗣の反乱があった。聖武天皇は不安定な状況を仏法によって救おうとした。国分寺国分尼寺の建立を発願、そして「廬舎那大仏造立の詔」を発した。

天皇の力で大仏を造ることはできるが、それでは大仏に心がこもらないということで、民衆に「一枝の草、一把の土」の提供でもいいという協力を求めた。これは今までの官立寺院とは異なっている。この考え方は、のちの復興や修復のときの前例となった。この精神は「明治神宮」造営時にも引き継がれている。

廬舎那仏とは「華厳経」の教主(本尊」で、それは無限に大きな仏である。世界界に存在するものは別々に存在しているように見えるが、実は密接な相関関係の上に融合し調和が保たれて世界が成り立っていると考えている。その教義で世を救おうとしたのだ。華厳という言葉は、それぞれの花が他に束縛されることなく、自分を主張しながら、そうした花々が調和し、世界を飾っている姿をあらわしている。ここでいう花は、人であり、動物であり、植物である。そういう理想世界が華厳の世界なのである。

世界最大の木造建造物と大仏の開眼供養会には、インド、中国などを含め1万人の僧が参集したというから、大イベントであった。仏教伝来から200年、釈迦の誕生日の4月8日に決定している。この様子は「万葉集」では、「青丹よし 寧良の京師は咲く花の 薫ふがごとく今盛りなり」と詠まれている。

奈良の大仏は修学旅行の定番で、私も中学時代に訪問したことがあり、その後も何度か見ている。造営当時の大仏殿は間口88mの大建築であったが、鎌倉時代の同規模の再建を経て、江戸時代には間口は57mとなった。私たちはその姿をみているのだ。

この大事業には、行基など多くの人が関わっている。光明皇后聖武亡き後、正倉院をつくった。

東大寺は六宗(三論宗成実宗法相宗倶舎宗、華厳宗、律宗)の研究機関であったが、後に真言宗と天台宗が加わり、八宗兼額の寺となった。

東大寺と大仏を造営した聖武天皇については、毀誉褒貶はあるが、大事業を成した功績は揺るがない。

 

 

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ヨガ教室は先生が代講で女性6人だった。

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「名言との対話」3月9日。橋爪四郎「古橋は選手を育てて金メダルを取るために水泳連盟に入り、僕は底辺を広げるためにスイミングスクールを開くことになるんだ」

橋爪 四郎(はしづめ しろう、1928年9月20日 - 2023年〈令和5年〉3月9日)は、日本の競泳選手、スポーツ指導者。ヘルシンキオリンピック競泳男子1500m自由形銀メダリスト。

和歌山県出身。旧制海草中学(現県立向陽高校)卒業後、奈良の靴下製造会社に就職した。古橋廣之進に「橋爪くん、俺と一緒にやらないか」と誘われ、日本大学に入学する。自由形中長距離で、「フジヤマの飛び魚」と呼ばれた名選手・古橋と一時代を画した。

1948年のロンドン五輪では敗戦後の日本は参加できなかったが、同日に開催された東京での大会では、1500m、400mで金メダリストを大きく超える世界記録を2人そろって出した。1500mでは40秒近く速い記録であり、出て入れは金、銀だった。

次の1952年のヘルシンキオリンピックでは400mで古橋は惨敗。橋爪は1500m自由形で銀メダルを獲得するが、古橋をおもんばかってメダルは見せなかった。橋爪は世界新記録を11回塗り替えている。

競泳選手としてのモットーは「速く泳ぐより、綺麗に泳ぐ」。綺麗に泳げるようになると無駄がなくなり、おのずとタイムも早くなったという。

引退後は橋爪スイミングクラブを設立して後進を育て、日本水泳連盟顧問、文部省スポーツ指導委員、横浜市教育委員等々を歴任。勲四等旭日小授章受章、国際水泳殿堂入りを果たしている。

1955年、AIUを退職し、橋爪スイミングクラブを創立して代表取締役社長に就任。「古橋は選手を育てて金メダルを取るために水泳連盟に入り、僕は底辺を広げるためにスイミングスクールを開くことになるんだ」と語っている。

2009年8月の、親友であり恩人でもあった古橋の死去に際しては「水泳界はもちろん、スポーツ界にとって大きな存在だった。ヒロさんとともに競技できたことを誇りに思う。ご冥福を心からお祈り申し上げます」とのコメントを発表している。

89歳時のインタビュー映像で元気な姿をみせている。2020年の東京オリンピック、2024年のパリオリンピックのことも語っていたが、パリは見ることはできなかった。

柔道界では、無敵の山下康裕の残した「本当はロス五輪の後で引退しようと思っていた。でも、最後は斉藤の挑戦を受けてから引退しようと考え直した」との言葉に感激し、斉藤仁「こんな人に出会えた自分は幸せ」「山下さんがいたからこそ、それに向かう努力・研鑚というプロセスも生まれた」と感謝の言葉を述べている。同世代に天才・山下康裕という突出したライバルがいたたことは、斎藤仁にとってまことに不運であったのだが、実直に努力を重ね、不屈の精神で生涯にわたって研鑽を積み上げることができたことは幸いでもあった。

大相撲。山形県鶴岡の横綱柏戸記念館には「阪神柏戸、目玉焼き」という言葉があったのに驚いて笑ったことがある。大鵬は、目標であり、ライバルであり、友人であった柏戸に出会えて本当に幸せだったと述懐している。男性的な取り口で人気があり、「大洋・柏戸・水割り」という言葉もあった。

音楽分野。山本直純東京芸大の作曲科から指揮科に転じている。後輩の小澤征爾は後に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と言われたと語っている。山本は大衆の中に音楽を通じて飛び込んでいく仕事をライフワークとしたのだ。

実力の拮抗した両雄が並び立った場合は、業界全体が活性化し一時代を築くことになる。大相撲の栃若時代、柏鵬時代。プロ野球の三原・水原の監督時代、ON時代、織田幹夫と南部忠平の陸上などが思い浮かぶ。

山下康裕に対する斎藤仁、大鵬に対する柏戸というライバル関係、そして小澤征爾に対する山本直純にいたっては、水泳連盟に入った古橋広之進に対するスイミングクラブを創設した橋爪四郎と同じ軌跡をたどっている。どちらの仕事も必要だ。彼らは同世代に突出した天才がいたことの不運を幸運に変えた人々である。