快晴の土曜日。
- ブログ執筆:公文俊平情報塾。反戦・平和作家の早乙女勝元。
- テレビ体操:2004年のブログ開始以前の2001年あたりから毎日行っている。体力維持の基礎部分という感じ。
- ヨガ教室で1時間:2016年頃から毎週土曜日の朝9時から。この時間は身体と精神をリフレッシュする時間。
- 松田俊秀君から電話あり。近況交換。
- 唐木田で妻と昼食。往復6500歩。アラビアータとワインとコーヒーを楽しむ。
- 昼寝。
- 散歩3500歩:家族、女性同士で散策する人が多い。平和な風景。
- 今村将吾『塞王の盾』(オーディブル):自宅や散歩途中で聴いている。もうすぐ読了となる。時代は戦国時代だが、テーマは「戦争と平和」ということだろう。城の石壁職人集団の棟梁と鉄砲を得意とする集団との激突。石は人である。
- 内村鑑三著・鈴木範久訳『代表的日本人』(岩波文庫):以前読んだだ記憶があるが、改めて本格的にここ数日で読み、本日風呂で読了した。
- ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を改めて堪能。
- テレビ「プロジェクトX」:明石海峡をまたぐ全長4キロの世界一の橋をつくりあげた男たちの物語。上司と部下。師と弟子。
- 明日の「名言との対話」の準備:中西太か阿部牧郎か。
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「名言との対話」5月11日。中西太「何苦礎(ナニクソ)」
中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日- 2023年5月11日)は、プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。享年90。
香川県高松市出身。高松第一高等学校時代から豪打で「怪童」とよばれた。1951年の夏の甲子園大会では準決勝に進出した。翌1952年に西鉄ライオンズに入団して新人王に選ばれた。1953年はホームラン36本、86打点で二冠王となり、打率3割1分4厘に加え、36盗塁もマークし、史上3人目の「3割30本30盗塁」を達成した。
1954年は本塁打王、1957年は打点王のみに終わったが、1955年と1958年は首位打者と本塁打王、1956年は本塁打王と打点王となった。入団7年目で計4回も二冠王となった。水原巨人を3年連続破った三原監督率いる西鉄黄金時代の豪打瞬足の4番打者である。
1959年以降は右手首の故障により代打出場が多くなり、1962年からは監督兼任、1969年で現役を退いた。
中西はホームラン王を5回とった打者である。その飛距離は圧倒的で平和台球場の場外ホームランは日本プロ野球史上最長飛距離(一説では162メートル)であるといわれている。また打球の速さが他の打者とは違った。そして瞬足であった。このあたりは大谷翔平を彷彿とさせる。ユーチューブの画像で、大谷については、身体の進化、努力、人間性をあげ、毎日テレビで応援していると語っている。
「三原マジック」といわれた義父の三原脩から受けついだ野球と人生にかんするメモを満載した「三原ノート」は、日本ハムの栗山英樹監督に引き継がれた。その流れがWBCの優勝につながっているのだろう。
現役引退後は監督として日本ハムファイターズ、阪神タイガースなどの監督や代行を務めた。またいくつかの球団のコーチとして、若松勉、岡田彰布、掛布雅之、宮本慎也など多くの逸材を育てた名コーチでもあった。中西はグラウンドでの豪打に似ず、意外なことに繊細な性格だったという見方が多いことを初めて知った。
中西の活躍した時代は私が小学校にあがる前である。私は長島のいる巨人ファンだったが。周りには西鉄ファンが多かった。その中心にいたのが中西だった。
中西太の座右の銘はナニクソをもじった「何苦礎」である。何ごとも苦しい時が自分の礎をつくるという意味だ。この言葉は後輩にも影響を与え、岩村明憲や田口壮らが引き継いでいる。豪打、俊足の天才打者・中西太はナニク魂の持ち主だったのだ。