神奈川近代文学館で「中島敦展ーー魅せられた旅人の短い生涯」。
「山月記」「李陵」などで知られる中島敦は、わずか33年の生涯だった。1909年生まれで。2019年は生誕110年。没後77年。司馬遷は没後2100年。
同年生まれの作家をあげると、大岡昇平、太宰治、松本清張、中里恒子、埴輪雄高がいる。彼らと同年生まれという感じはしない。それは中島敦が夭折だったからだ。
1949年から2006年までの国語教科書に登場する文豪のリストでは、「こころ」の漱石、「羅生門」の芥川、「舞姫」の鴎外、「城の崎にて」の志賀の次に、「山月記」の中島敦が並んでいる。この作家は生存中はほとんど知られなかった。海外での翻訳も多く、また演劇、漫画、映画にもなっている。純粋に作品だけで後世にも生き残っている稀有な作家である。
東京帝大をでて横浜の女学校の教員を8年間している。大学院にも籍を置いた。テーマは森鴎外だった。その後、転地療養も兼ねて南洋庁に勤務することになり、第一次世界大戦でドイツから奪ったマリアナ、カロリン、マーシャルの委任統治を統括する南洋庁のパラオに赴任する。国語編集書記として日本語教科書の改訂・編集が担務だった。そこで小説家デビューとなるが、わずか8ヶ月で逝去。
「俺といふ個人性を希薄に行って、しまひには、俺という個人がなくなって、人間一般に帰してしまひさうだ。冗談じゃない。もっと我執を持て! 我欲を!」(カメレオン日記)
詳細は、資料を読み込んで別途書く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
息子夫婦と元住吉で昼食会。
ーーーーーーーーー
「名言との対話」11月4日。青田昇「しかし人間は、成功より失敗から、より多くのことを学ぶものだ」
青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 1997年11月4日)は、プロ野球選手・コーチ・監督、解説者・評論家。
1942年に巨人に入団。戦後は阪急に数年在籍ののち巨人に復帰する。強打で知られ、7年間で5回の優勝を果たすなど巨人の黄金時代に貢献した。足かけ16年の選手生活で、首位打者1回、ホームラン王5回、打点王2回。2冠王も2度とっている。引退後は阪神などのコーチ・監督を歴任。また野球解説者としても人気を博した。解説者としての切り口は非常に厳しく球界のご意見番の異名があった。
魔術・三原侑、猛牛・千葉茂、神様・川上哲治など、野球選手には異名、愛称がある。青田は、ジャジャ馬だ。ジャジャ馬とは、はねあばる馬、悍馬、人の制御に従わない人のことをいう。そのとおりの人柄だった。72歳の時の自伝「ジャジャ馬一代」を読んだ。
この自伝の中で、監督の交代劇と青田自身の出処進退に興味を持った。現役引退後は、コーチとして藤本監督の阪神の優勝に貢献した。3年計画で黄金時代を作りたいから、手伝ってくれ」ならわかるが、後任監督には「もう1年、もう1年」では性格に合わないとして退団した。また阪急西本幸雄監督のコーチとして3年目に優勝する。そのため優勝請負業、優勝請負人と呼ばれた。吉田義男は「青田さんは教える達人でしたね」と語り、長池は「自分は青田さんによって造られたホームランバッターです」と述べている。参謀、コーチとしての才能は群を抜いていた。
青田は巨人の監督交代劇をみてきた。三原から2つ年上の水原への交代で三原が総監督になって失望し退団する様子。戦前の体質で「テツ」と呼び捨てにすることで関係がギクシャクした水原・川上の関係。川上から16歳年下の長島への交代では、長島が川上に人事などを相談しなかったため関係が悪くなったこと。戦後の巨人を内面的にリードしてきた千葉茂は川上が監督になったとき、「ワシがいてはテツはやりにくかろう。これはワシの犠牲バントや。現役時代からこれが一番得意の技やったからな」という名セリフを残して近鉄に去ったエピソード。
参謀には向いているが、大将には不適当が青田の自己評価だ。「トップに立つ人は、複眼ならぬ複耳をもたなくてはいけない」との持論も持っていた。それが自分にはできないことを知っていたのだろう。
ジャジャ馬・青田昇は阪急、サンケイ・アトムズ、東京オリオンズ、南海などの監督を要請されたが、全部断っている。唯一受諾したのは大洋ホエールズの監督だった。野球一筋で、宮本武蔵の「我レ事ニオイテ後悔セズ」が人生の総括だったのだが、1973年に大洋ホエールズの監督になり、見事に失敗している。児玉源太郎・秋山真之という参謀が自分の本領であり、東郷平八郎元帥になれるかも知れないと一瞬錯覚したのだ。失敗から学ぶことが多いというのは、その時に身に染みたことである。青田昇から学ぶべきことは「本領を忘れないように」という教訓である。