武田神社。
200メートル四方の武田の館跡。
武田信玄は馬上30年で甲信両国の大宗として天下制覇の志を抱く。
北条と和し、越前の朝倉、近江の浅井、本願寺と結び、足利義昭の意を受けて、元亀3年に3万の大群を率いて京を目指した。三方原で織田・徳川の連合軍を破り、宿望ならんとした矢先に病に倒れる。1573年、53歳だった。それからわずか9年後の1582年に滅ぶ。その家臣団を活用したのが天下人となった家康で、彼らは多摩の八王子千人同心となった。
「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」
江戸時代の5代将軍綱吉の時代に権勢をふるった柳沢吉保が甲府15万石の殿様であった。
高い教養の持ち主で「護法常応禄」33巻を上梓している。
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恵林寺。
武田信玄の菩提寺。臨済宗。庭園は鎌倉時代末期の名僧・夢窓国師の作庭。七朝国師、帝師と呼ばれた。「夢窓国師語録」(上下)。
武田氏滅亡後、織田方の兵火で信玄を導いた快川国師ら高僧120名余が焼き殺された。このとき快川国士は「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」といったことは有名。
信玄の武将であった武田二十四将の一人山本勘助は、上杉謙信との川中島合戦で討ち死にしたが、信玄とともに「武田家百目録」を編んだ。信玄の人生訓があますところなく記されていて興味深い。
「1・朝の目覚めは「臍下丹田」から」「「2・毎時堪忍の二字意にかけよ」「「5・身じまいは朝食前に手早く」「、、、。
「甲陽軍艦」の展示。
「六分七分の勝は十分の勝なり」「九分十分の勝は、味方大負の下作なり」「四十歳より内は勝やうに。四十歳より後は負けざるように」「人をばつかわず、わざをつかふぞ」「
「風林火山」の旗。
「疾きこと風の如く 徐かなること林の如く 侵りゃくすること火の如く 動かざること山の如し」
信玄は治水事業に手腕を発揮した。甲府盆地を氾濫から救うために20年をかけて信玄堤と今なお呼ばれる築堤工事を成功させた。
父・信虎との確執があった信玄は危機感を共有した部下とはかって、国外に強制的に隠居させた。ごく自然な形で父を追放している。無血革命である。信玄21歳、信虎48歳。
武田信玄の伝記と「武田家百目録」を読むことにしたい。
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「名言との対話」2月20日。中野好夫。
- 「人間一期の大事に際して、案外頭のよさなどというものは役に立たぬ。人間大事の決断ということになれば、それははるかに知性以前のものである。」
- 人は常に迷う。決められない。決断は難しい。何か指針はないだろうか。
- 八分方がたうまくいく、このときにゴーサインを出すのは誰でもができる単なる判断に過ぎない。四分六分で分が悪い、五分五分で見通しがつかない、しかし自分が深く関われば成功の確率が六分にあがる。そのときにやると決めることを決断というのである。
- 結局、組織の命運は、最終的には個人の決断に委ねられる。決断に責任を持つとは、失敗したら辞めるということではなく、失敗しないように自身が深く関与するとういことなのだ。
- 2月20日に他界した中野好夫のこの言葉は重い。頭の良さでシュミレーションを疲弊するまで重ねることでは決して決断はできない。決断とは知性以前の不退転の覚悟の問題なのである。