行政マン研修「図解思考力向上講座」

 公務員研修「図解思考力向上講座」。丸一日。人数は40名弱。

以下、アンケートから。

・図解はとても包容力があります。

・仕事やり方を見直すきっかけになった。

・仕事に対して初心の戻り見つめ直す良いきっかえになっら。

・学校の制度の改正・運用等を伝えるのに有効。相関を明確にして今の自分の責任を改めて認識するいい機会になった。

・いかにものごとの本質や流れを見えていなかったかが浮き彫りになった。図解が本質を追求できることを知るとれも驚きました。

・新鮮。頭をよく使う物だと実感した。

・発想が面白い。次回はより実践形式で学ぶ研修を受けたい。

・関係性や重要度を再確認できた。誰に対して、何の目的で、、。

・図解の応用範囲の広さに驚いた。説明上手は図解も上手と思いだした。

・楽しみながら自己分析できる面白い手法。

・最近、職場の資料も図が多くなる傾向にありますが、ポイントを教わり勉強になった。合意形成に文章よりも図解の方が良いということはとても納得できたので、自信を持ってすすんでいきたい。

・次回は活用方法の事例もうかがいたい。次年度の新規重点事業を考える時期なので、頭の整理ができて大変参考になりました。

・図にすることで、言葉のつながりや物事がとらえやすくなることを実感。

・鳥瞰することで関係性がよくわかった。

・期待以上の成果を得られた。日本史の図解にも興味あり。

・甘かった。日々の考えの足りないことを思いしらされどっと疲れました。税金をいただき身としては毎日、このくらいの深度でものごとを考えなくてはならなかったと反省。実習形式で先生にリアルタイムで添削してもらえ、ヒントがいっぱいで勉強になりました。

・次回は、テクニックも。ファシリテーショングラフィック(議論の円滑化)も。

・図解には創造力と想像力が必要。自分の思考のクセもでる。

・自分の業務が他の部署や最終受益者とどう関わっているかを再考するきっかけになった。手で描くことで、深く考えながら試行錯誤できた。

・税金をトップの承認を得て使わせてもらっていることを改めて再認識する良い機会となった。

・図解することで、最終的な目標がクリヤになることがわかった。作成した図は他の同僚とシェアすることも有効。我々は目的と手段を混同しがちであるので、ゴールは何かを意識しながら日々を過ごしたい。

・文章はごまかしがきくというのは意外。いざ、図解してみるとなりほど!

・自分の仕事のレベルを上げるきっかけになりそうなので、しっかり身につけたい。

・文章では人それぞれの理解が違っているのでトラブルになるというのはショックだったが、実際の例題で体験すると納得した。

・文章はたった2行でも人によって受け取り方が違うことにハッと気づかされました。

 

「名言との対話」7月31日。小谷正一「いつだって時代は過渡期だし、キャンパスは真っ白なんだよ」

小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。

 「新聞のフォーマットというのを作ったといわれている。確かに、戦前までの新聞は、一面は活字だけらけだが、大きな写真でドーンとあって、100号活字で見出しがあるというスタイルは戦後のものだろう。これは、大阪毎日新聞の時代に小谷さんが作ったと聞いている。

 次に、日本で最初の「イベント」というのをやった男である。、、大阪毎日の編集局長時代に、「毎日新聞」という言葉を「朝日新聞」に掲載したいと思った。それで、当時、甲子園球場に四国から牛を連れてきて「闘牛大会」というイベントをやった。人が集まって事件になるから、朝日新聞も、毎日新聞主催のこと出来事を記事にせざるを得なかった。これが日本でのイベントというもののスタートだとされている。まだ無名の井上靖が、小谷さんをモデルにして「闘牛」という小説を書き、直木賞を取る。

 新聞の世界で名をはせた次は放送である。ちょうど、大阪毎日放送という民間放送がスタートする時代で、小谷さんは(たぶん)最初の民放の編成局長になる。これは本人から聞いたんだけど、彼はグラフ用紙を買ってきて、1週間分の番組表を全部一人で作った。500の番組だった。今のテレビ番組表の骨格を作ったのだ。

 新聞・イベント・テレビのプロトタイプを作ったあとは、広告の世界に入る。いわゆるSP(セールスプロモーション)だ。60年代から70年代にかけての、高度成長とともに発展した、日本の消費社会・広告社会の中で、電通PRを舞台にした、小谷さんの役割は大きかった。例えば、銀座のソニービルがあるでしょう。あそこの入り口のところで、いろんなイベントやってますよね。今では、銀座の風景になじんで、当たり前のようになっているが、あれだった、最初は、誰かが仕掛けたのである。小谷さんである。社会全体をメディアの舞台として認識した、最初のメディアマンだったのである。

 そして、大阪万博である。小谷さんは住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っているが、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。」

以上が、小谷正一を師匠とした私の友人の橘川幸夫が語る小谷の業績である。

小谷正一は年越しの名刺を持たない男」といわれたように、一つの仕事を成し遂げると未練なく次の会社で仕事に取り組むというスタイルを貫いた人だ。

時代の過渡期に巡り会って縦横に仕事ができた幸運をうらやましがった後輩に向けて語ったのが冒頭の言葉である。そう、いつだって時代は曲がり角にあるし、いつだって過渡期なのだ。遅れてきた青年などはいない。真白いキャンパスに自由に絵を描こう。

行政マン研修

 公務員研修「図解思考力向上講座」。丸一日。人数は40名弱。

以下、アンケートから。

・図解はとても包容力があります。

・仕事やり方を見直すきっかけになった。

・仕事に対して初心の戻り見つめ直す良いきっかえになっら。

・学校の制度の改正・運用等を伝えるのに有効。相関を明確にして今の自分の責任を改めて認識するいい機会になった。

・いかにものごとの本質や流れを見えていなかったかが浮き彫りになった。図解が本質を追求できることを知るとれも驚きました。

・新鮮。頭をよく使う物だと実感した。

・発想が面白い。次回はより実践形式で学ぶ研修を受けたい。

・関係性や重要度を再確認できた。誰に対して、何の目的で、、。

・図解の応用範囲の広さに驚いた。説明上手は図解も上手と思いだした。

・楽しみながら自己分析できる面白い手法。

・最近、職場の資料も図が多くなる傾向にありますが、ポイントを教わり勉強になった。合意形成に文章よりも図解の方が良いということはとても納得できたので、自信を持ってすすんでいきたい。

・次回は活用方法の事例もうかがいたい。次年度の新規重点事業を考える時期なので、頭の整理ができて大変参考になりました。

・図にすることで、言葉のつながりや物事がとらえやすくなることを実感。

・鳥瞰することで関係性がよくわかった。

・期待以上の成果を得られた。日本史の図解にも興味あり。

・甘かった。日々の考えの足りないことを思いしらされどっと疲れました。税金をいただき身としては毎日、このくらいの深度でものごとを考えなくてはならなかったと反省。実習形式で先生にリアルタイムで添削してもらえ、ヒントがいっぱいで勉強になりました。

・次回は、テクニックも。ファシリテーショングラフィック(議論の円滑化)も。

・図解には創造力と想像力が必要。自分の思考のクセもでる。

・自分の業務が他の部署や最終受益者とどう関わっているかを再考するきっかけになった。手で描くことで、深く考えながら試行錯誤できた。

・税金をトップの承認を得て使わせてもらっていることを改めて再認識する良い機会となった。

・図解することで、最終的な目標がクリヤになることがわかった。作成した図は他の同僚とシェアすることも有効。我々は目的と手段を混同しがちであるので、ゴールは何かを意識しながら日々を過ごしたい。

・文章はごまかしがきくというのは意外。いざ、図解してみるとなりほど!

・自分の仕事のレベルを上げるきっかけになりそうなので、しっかり身につけたい。

・文章では人それぞれの理解が違っているのでトラブルになるというのはショックだったが、実際の例題で体験すると納得した。

・文章はたった2行でも人によって受け取り方が違うことにハッと気づかされました。

 

「名言との対話」7月31日。小谷正一「いつだって時代は過渡期だし、キャンパスは真っ白なんだよ」

小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。

 「新聞のフォーマットというのを作ったといわれている。確かに、戦前までの新聞は、一面は活字だけらけだが、大きな写真でドーンとあって、100号活字で見出しがあるというスタイルは戦後のものだろう。これは、大阪毎日新聞の時代に小谷さんが作ったと聞いている。

 次に、日本で最初の「イベント」というのをやった男である。、、大阪毎日の編集局長時代に、「毎日新聞」という言葉を「朝日新聞」に掲載したいと思った。それで、当時、甲子園球場に四国から牛を連れてきて「闘牛大会」というイベントをやった。人が集まって事件になるから、朝日新聞も、毎日新聞主催のこと出来事を記事にせざるを得なかった。これが日本でのイベントというもののスタートだとされている。まだ無名の井上靖が、小谷さんをモデルにして「闘牛」という小説を書き、直木賞を取る。

 新聞の世界で名をはせた次は放送である。ちょうど、大阪毎日放送という民間放送がスタートする時代で、小谷さんは(たぶん)最初の民放の編成局長になる。これは本人から聞いたんだけど、彼はグラフ用紙を買ってきて、1週間分の番組表を全部一人で作った。500の番組だった。今のテレビ番組表の骨格を作ったのだ。

 新聞・イベント・テレビのプロトタイプを作ったあとは、広告の世界に入る。いわゆるSP(セールスプロモーション)だ。60年代から70年代にかけての、高度成長とともに発展した、日本の消費社会・広告社会の中で、電通PRを舞台にした、小谷さんの役割は大きかった。例えば、銀座のソニービルがあるでしょう。あそこの入り口のところで、いろんなイベントやってますよね。今では、銀座の風景になじんで、当たり前のようになっているが、あれだった、最初は、誰かが仕掛けたのである。小谷さんである。社会全体をメディアの舞台として認識した、最初のメディアマンだったのである。

 そして、大阪万博である。小谷さんは住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っているが、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。」

以上が、小谷正一を師匠とした私の友人の橘川幸夫が語る小谷の業績である。

小谷正一は年越しの名刺を持たない男」といわれたように、一つの仕事を成し遂げると未練なく次の会社で仕事に取り組むというスタイルを貫いた人だ。

時代の過渡期に巡り会って縦横に仕事ができた幸運をうらやましがった後輩に向けて語ったのが冒頭の言葉である。そう、いつだって時代は曲がり角にあるし、いつだって過渡期なのだ。遅れてきた青年などはいない。真白いキャンパスに自由に絵を描こう。

藤原啓記念館。閑谷学校。備前長船刀剣美術館。今泉俊光刀匠記念館。国吉康雄の絵。水木しげる展。

知研岡山の伊藤さんに案内してもらって、人物記念館を探訪問。

 まず、備前市の藤原啓記念館。

藤原啓(1899ー1983年はf伝統ある備前焼人間国宝

この6が月にF A N美術館がオープンしたばかり。それは藤原啓記念館と、201年から始まったアートオリンピアと、湯河原にあるに人間国宝美術館」とが合体してできた美術館(山口伸広理事長)である。瀬戸内海の入江が目の前に開ける絶景。藤原啓の息子が藤原雄(人間国宝)。その息子が1958年生まれの藤原和。藤原啓は、抒情詩人から40歳で陶芸に一転した人物。

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閑谷学校岡山藩池田光政公が建てた庶民のための学校。湯島の聖堂、足利学校と並ぶ素晴らしい学校。

池田光政は、1609年生まれ1682年没。29歳から61歳までの33年間、日記をつけていた。 

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備前おさふね刀剣美術館。

今泉俊光刀匠記念館。1898年ー1995年。97歳。「精魂一途」。

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岡山県立美術館で、 国吉康雄の絵を7点みる。

国吉は1906年、17歳で渡米。後にアメリカ美術会議副議長、美術組合会長。

 岡山シティミュージアムで開催中の「水木しげる 魂の漫画展」。

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「虫とか草とかが吐く言葉は、地球の言葉なんです」

「金は欲しがると逃げる」 

 

「名言との対話」7月30日。ヘンリー・フォード「年寄りは若い時に貯金をしろと言うが、それは間違っている。最後の一銭まで貯めようと考えたらいけない。自分に投資しなさい。私は40歳になるまで、1ドルたりとも貯金したことがない」

ヘンリーフォード(Henry Ford 、1863年7月30日 - 1947年4月7日)は、アメリカ合衆国出身の企業家、自動車会社フォード・モーターの創設者であり、工業製品の製造におけるライン生産方式による大量生産技術開発の後援者である。

「学ぶことをやめた人はだれでも老いている。20歳であっても80歳であっても、学び続ける人は誰でも若い」

「事実がわかっていなくとも前進することだ。やっている間に、事実もわかってこよう」

16歳年上のエジソンとは、一時エジソンの会社で部下的存在として働いていたこともあり、友人関係にあった。T型フォードで大富豪になった後には、いくつかのエジソンの危機に際して援助している。「エジソンは発明家としては優秀であったが、経営者としては最悪だった」と評している。

まず自前の投資金を手にせよ、とする教訓を言う先達もあるが、私は「貯金をするな、自己に投資せよ」というこのフォードの言葉にわが意を得たという感じを持つ。フォードであったか定かではないが、同じ思想の影響を受けて、小金を貯めずに30歳くらいまでは自分が伸びるために可処分所得を注ぎ込もうとしていた。今となってみると、それでよかったと思う。年寄りのアドバイスは聞いてはいけない。

知研岡山

新幹線で、新横浜から岡山へ。

到着後、知研岡山のメンバーとの会食。

最初に「偉人の命日366名言集」をテーマとしたミニ講義。

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 2次会はいつもの「エバーグリーン」。

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「名言との対話」7月29日。重光葵願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」

重光 葵(しげみつ まもる、1887年明治20年7月29日 - 1957年昭和32年1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本外交官政治家である。
湯河原の別邸が記念館になっている。「志四海」(向陽)という額が飾ってあった。四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。この言葉を外交方針とした。
1929年上海領事。1931年駐華公使満州事変)。1932年右脚切断(上海事変停戦協定・爆弾)。1933年外務次官(46歳・広田外相)。1936年駐ソ大使。1939年駐英大使(日独伊三国同盟の危険性)。1941年駐華大使。1943年外務大臣(東条内閣・小磯内閣・終戦木戸幸一内大臣と話し合う)。1945年外務大臣(東久邇内閣・日本全権としてミズリー号上で降伏調印)。戦犯になる。1952年改進党総裁。1954年日本民主党副総裁、鳩山内閣副総理・外務大臣。1956年日ソ交渉(不調)、国連加盟総会演説(「日本は東西の架け橋になる」)。1957年死去。

1932年、上海で行われた天長節天皇誕生日)の祝賀式。「式台に並んだ重光葵公使らが"君が代"の斉唱中、爆弾が投げられた。爆発で下半身を強打され、重光は倒れた。右脚がちぎれるように痛い」(孤高の外相 重光葵豊田穣著)。傷口は大小160幾つあり、非常な精神力で何とか乗り切るが、最終的に片足を切断することになる。片足を失いながらも、翌年外交官として復帰。

米戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した重光は、大分県の誇りになっている。安岐町にある山渓偉人館でその生涯を追うこちができる。ミズーリは米国最後の戦艦で、第二次大戦中は太平洋を中心に活動し、硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行った戦艦だ。この戦艦は昭和20年8月29日、東京湾で降伏文書調印式が行われたことで有名だ。マッカーサー元帥率いる連合国に対し、日本側は重光葵全権率いる日本政府の代表団との間での調印式である。ハワイのミズーリ号を降伏文書には、政府代表重光葵と日本皇軍代表梅津美治郎代表のサインを見ることができた。当時、重光は外相、梅津は参謀総長だった。この二人とも大分県人である。重光は国東町、梅津は中津出身である。

マッカーサーのサインの後には、米国、中国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表のサインがみえる。2番目は中国だった。あの戦争は太平洋戦争でもあったが、大東亜戦争でもあったのだ。真珠湾攻撃より10年前の1931年には満州事変が起こっていた。日本は中国にも負けたのだ。

屈辱的な歴史的役割を果たした重光葵は「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」と詠んだ。その志の高さに感動を覚える。

T-Studioでの収録。大学戦略会議。自己点検委員会。大学経営・運営合同会議。ギリークラブでのセミナー。

「副学長日誌・志塾の風」170728

多摩キャンパス

  • T-Studiioで「名言との対話」を収録。

・21回は「レオナルド・ダヴィンチ」。三菱一号館美術館

・22回は「ミケランジェロ」 。ルネッサンス時代を代表する二人の天才の比較。

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  九段サテライト

・大学戦略会議:本日のテーマは「就職」。質の向上。トップクラスの学生の就職戦略。就職満足度の測り方。留学生の内外ネットワーク。

・第1回自己点検評価委員会:「自己点検報告書2016」。

・大学経営・運営合同会議:「大学院DSBコース」「教員人事:大学院客員教授・経営情報学部専任教員・グローバルスタディーズ学部教員再任審査」。学長「人生100年、80年現役社会。社会人教育の場に。クオリティ。外との接点を。」

 18時。 渡辺客員教授:杉田学部長と一緒に科目の内容の相談。最新ビジネス事情、、、。

  19時。ギリークラブで私のセミナー「偉人の命日366名言集で人生と仕事に喝!」

少人数であり、じっくりと語り合うことができた。 f:id:k-hisatune:20170729062817j:image

 今日の収穫

佐藤栄作「内閣は解散するたびに求心力を増し、改造するたびに求心力が低下する」

・出処進退は難しい。早すぎるか、遅すぎるかだ。どちらがいいかというと、早すぎる方がまだいい。

 

 「名言との対話」7月28日。大原孫三郎「仕事は三割の賛同者があれば着手すべきだ。5割も賛成者があればもう手遅れだよ」

 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は日本実業家倉敷紡績クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。

倉敷は河岸に倉庫が立ち並ぶ町で、蔵屋敷、蔵敷地などと呼ばれていた。それが蔵敷となり、いつの間にか「倉敷」となった。徳川時代は幕府直轄の天領だった。ここを治めた代官所跡に倉敷紡績ができた。それが近代の発展の原動力になった。倉紡記念館は昭和42年の創業80周年記念事業でつくられたのが倉敷紡績の歴史記念館である。

30歳で二代目社長となった大原孫三郎は、社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。
  大原孫三郎は「従業員の幸福なくして事業の繫栄はない」という労働理想主義を掲げ、敷地内に小学校や工手学校などの学校をつくるなどユニークな労務管理を行い、飛躍していく。人道主義、人格主義、キリスト教社会主義社会改良主義と、その思想は移行していく。高い業績をあげた大原社会問題研究所は現在は法政大学に移って存続している。倉敷労働科学研究所は、(財)労働科学研究所となっている。
大原孫三郎は、1万人の従業員のために倉敷中央病院、倉敷高松病院倉敷販売利用組合、若竹の園などもつくった。最盛期には1200人を擁した岡山孤児院をつくった石井十次(1865年生)と親交を持った。倉敷中央病院は、治療本位の設計、明るい病院、東洋一の病院という考え方で造られ、開所式には後藤新平が来て祝辞を述べている。

『わしの眼は十年先が見える』という著書もある大原孫三郎は十年先どころか、百年先のフィランソロピーの登場を見ていたのではないかと生涯を眺めると思えてくる。彼が言うように仲間の半分が賛成するような施策はすでに手遅れであろう。未来へ向けての決断がテーマである経営は、多数決で行っては断じてならない。

土門拳記念館再訪

  昨日、講演した菅原制作所の社長と常務の車で酒田市内を案内していただく。

 土門拳記念館を再訪。「昭和のこども 19人の写真家たち」展をやっていた。

木村伊兵衛入江泰吉土門拳、緑川洋一、田沼武能、が知っている人だ。

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 「弁当を持ってこない子」1959年5月。土門拳

「弁当を持ってこない子は絵本を見ている。年頭を持っているこどもたちは何かの表紙で笑っても。何も関係ないかのように絶対にそちらを振り向かないのだ。」

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 紙芝居。こういうこどもの一人だった。

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 痩せている。

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 土門拳は24才からの2年間の商業写真家の内弟子時代に、写真の雑誌、単行本など500冊を超える本を読んで独学で写真を勉強している。

高村光太郎土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を、、、、。」

48歳「使命感みたいなものに駆り立てられて憑かれたように広島通いをするようになったという点で、その日々はぼくの生涯にとって忘れがたい日となった」

「写真の鬼」「撮影の猛者」、、。

1960年の『筑豊のこどもたち』はザラ紙、100円。10万部のベストセラー。

展示をみると、土門拳はやはりメモ魔だった。こういうメモが写真論やエッセイ本になっていったのだろう。

 帰りの機内で土門拳『死ぬことと生きること』(みすず書房)を読んだ。内容は明日にでも記したい。

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土門は画家志望であったが、仕事を転々とする。母が24歳の時に写真場の内弟子に世話をしてくれ、それが終生の仕事となった。親友の水澤澄夫によれば、厳しく指導した名取洋之助というカメラマンは土門にとってこの上ない師匠だった。この名取とは、雑誌「LIFE」の宇垣外相の写真掲載で袂を分かつ。

戦時色が強まる中、土門は仏像と文楽というテーマに打ち込んでいく。室生寺から始まる古寺巡礼と、特に日本文化の宝とも言うべき人形の文楽は1941年から43年頃に没頭する。

戦後、フリーになった土門はなにげない「日常」をモチーフとした写真を推奨し、子供の写真などを撮るアマチュア写真家を励ましている。土門はスナップ写真の名手だった。それは写真集「江東のこども」を見れば了解きる。

土門の仕事の中では、人物写真も優れている。志賀直哉谷崎潤一郎高見順会津八一、梅原龍三郎尾崎行雄などの顔写真を撮っているが、いい顔、立派な顔という意味で、土門は志賀直哉の顔を挙げている。

その後、土門は社会派に転ずる。砂川闘争、原爆ドームや被害者を描くヒロシマ、。報道写真家として活躍する。「ヒロシマ」では毎日写真賞や東ベルリン国際報道写真展金賞を獲得している。
1960年には写真集「筑豊のこどもたち」を刊行し、終戦直後の石炭の没落の中、ボタ山で遊ぶ子供たちを活写している。この作品は以前訪ねた酒田の土門拳記念館でもっとも印象に残った写真集だった。私たちの子供の頃の様子、兄弟や友達の姿を彷彿とさせる懐かしい写真集だった。

しかし、仕事に脂がのってきた50代を迎えた土門は軽い脳出血に襲われる。これ以後、土門は古寺、仏像にのめり込んでいく。
土門の写真の特徴はライティングにある。光を局部にあてて対象の本質を浮かび上がらせるという独特の方法である。
1968年の50代の終わりに脳出血をし、車椅子での撮影を余儀なくされる。念願にの「雪の室生寺」を撮ったのはこの頃だ。
54才では豪壮で壮麗な大判の「古寺巡礼」の第一集を刊行する。このシリーズは第五集で完結するが、それは66歳の時である。ライフワークとなった「古寺巡礼」では、菊池寛賞を受賞。67歳になって今度は室生寺をカラーで撮影する。

「ひとりの日本人のみずからの出自する民族と文化への再認識の書として愛惜の書として世に残すことができた」

「被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そしてときには語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる。そして火花が散るというか二つの視点がぶつかった時がシャッターチャンスである。パシャリとシャッターを切り、その視点をたぐり寄せながら前へ前へとシャッターを切って迫っていくわけである」(「車椅子からの視点」)

「造形物であるからといって、形に捉われては駄目だ。仏像の精神をまっとうに追及することが必要なのである。」(「仏像を撮るには」より)

母なる室生寺、別名は女人高野は空海が再建した寺である。土門にとってこの寺は古寺巡礼の原点であり、そして最後の「絶写」もこの寺だった。40数年間何十回も通い続けた。この寺の弥勒堂釈迦如来坐像の弘仁仏は天下一の美男だ。土門は「これでいい」というところまでとうとう行けなかったと述懐している。

70歳では朝日賞、仏教伝道文化賞を受賞。

土門は終生、日本と日本人を追いかけた。豪壮で強いもの、そして日本的であるもの、そういうものを土門はテーマとして追及した。以下、35年間にわたって古寺巡礼を続けてきた土門拳が好きなものを挙げる。一度は訪ねてみたいものだ。
建築では懸崖造りの三仏投入堂薬師寺三重塔、室生寺五重塔高山寺石水院。
仏像は、木像では神護寺本道の薬師如来、金剛仏では薬師寺東院堂の聖観音、石仏では臼杵の磨崖仏群。

1979年、70歳で脳血栓。その後はカメラを持つことは出来なくなった。
74歳で、故郷坂谷土門拳記念館が開館する。1989年、」80歳で永眠。

宗教学者の山折哲夫は、「土門拳の肉眼はレンズを通して、レンズを超えるということだろうか。。。氏の肉眼がレンズそのものと化し、レンズの鏡面に氏の肉眼が内在しているのである。」と分析している。

横尾忠則は、「芸術家は自らが選んだ対象を主題にする場合、その対象といつしか一体化していくものである。そしてその対象の中に自己を探ろうとするのだ。土門拳の場合でいえば仏像の中に自己の本体を発見するそんな想像の旅が彼の運命が求めたものであったのではないだろうか」という。
これこそまさに巡礼である。芸術家は巡礼者であろう。

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  本間美術館が休館。清遠閣を見学。『漫画で読む「公益の祖--本間光丘』を購入。

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 昼食後、庄内空港から羽田空港へ。

 

「副学長日誌・志塾の風」170727

・ 大学院運営委員会に出席:カリキュラム。

・徳岡研究科長:人事案件

 

「名言との対話」7月27日。山本有三「「たった一人しかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間生まれてきたかいがないじゃないか」

山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年明治20年)7月27日 - 1974年昭和49年)1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本小説家劇作家政治家

山本有三は、劇作家、小説家、教育者・文化人、政治家という4つの活動を行い、それぞれの分野で一流の価値ある仕事をしている。

第六高等学校合格後の父急死による断念、第一高等学校学科試験合格後の体格試験での不合格を経て、第一高等学校文科に入学したときは、すでに満22歳になっていた。一高での落第、2年終了で東京帝国大学逸文学科入学などで、同級生に多くの優れた友人を持つことになった。近衛文麿土屋文明芥川龍之介菊池寛久米正雄、新関良三、三井光弥、、、。落第を含む変則的な人生にも、そういう効能がある。そして有三は生涯にわたってその縁を生かしている。

二度目の結婚で得たはなは、近代的なセンスと文学的素養があり、有三にとって理想の人であった。はなは生涯にわたり、妻と秘書の一人二役を精魂込めてはたした。はなの助力がなかったら、あれほど幅の広い勝利は不可能だっただろう。

山本有三の思想の核には、自然的事実としての生存闘争と、道徳的善の要求がある。題材に応じて戯曲と小説に書き分けたのである。

有三の教養小説は、人間の外的成長に内的発展をからませて、主人公が何らかの人生の知恵に到達する過程を描く小説だ。「路傍の石」、「真実一路」などがそれである。現実の社会を一大劇場に見立てて、普通の人の群像を登場させ、人生の喜怒哀楽を描く。左右のあらゆる主義も単なる社会現象として著述する視野の広い作風である。

明治大学文科専門部文芸科長に招聘されたとき、教授陣は山本有三の厚みのある人脈が動員されている。里見弴、岸田国士横光利一土屋文明久保田万太郎小林秀雄獅子文六萩原朔太郎、谷川徹郎、長与善郎、舟橋聖一今日出海、、、。山本は「人をつくる」「人物を養成する」「子どもを育成する」という表現を好んだ。教育方針は「作家を作る」ために、「自ら会得させる」「芽を伸ばさせる」ことを重視し、見学、座談という体験学習にも力を入れた。

国語改革についても功績がある。GHQが日本語のローマ字化を目指す案を持っていたが、山本有三に「日本語の問題は自分たち日本人の手で解決するから口を出さないでもらいたい」と拒絶している。「国民の国語運動連盟」は、日本国憲法の口語化を実現した。国語審議会の「常用漢字表」の主査委員長となり、「当用漢字表」案を提出する。当用とは「当面使用すべきもの」という意味である。参議院議員に出馬したのは「国語研究所」をつるためだった。。「新しい国家を築きあげてゆこうとする時、文化人みずからが引っ込んでいて、どうして、本当の文化国家を建設する事ができましょう」。参院では「緑風会」を田中耕太郎らと結成している。有三命名のこの名前は、参院を理性の場にしたいという念願ならであった。仮名交じり文ではなく、漢字交じり文を主張し、耳で聞いてもわかる文章、文体を作りあげようとした。また山本有三は国語教科書を責任編集している。山本有三は文壇的存在よりも、社会的存在になっていく。

「今ここで死んでたまるか七日くる」が辞世となった。猛烈な仕事師であった山本有三らしい。戯曲「米・百俵」では、小林虎三郎を題材に「人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ない」ことをテーマとしている。冒頭に掲げた言葉は 『路傍の石』の中の言葉である。山本有三は幅の広い活動を生涯行ったが、私の見るところ、この人は教育者であった。教育者的資質が、様々な方面に生かされたと思う。

庄内の酒田市で講演。

 羽田空港からANA山形県庄内空港へ。

18時からの酒田市の菅原工務所創業80周年の記念講演。菅原常務から紹介される。

1937年創業ということは、盧溝橋事件から始まる日中戦争から今日まで続いている、地元の有力企業だ。

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 終了後は、懇親会。  前社長の母親と現社長の息子と酒田の名酒を飲みながら歓談。

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 2次会は菅原社長らとクラブへ。

 

「副学長日誌・志塾の風」170727

午前

・人事委員会

・学部運営委員会

・杉本係長:次回の戦略会議の打ち合わせ

 

「名現との対話」バーナード・ショー「こう半分しか残っていないと嘆くのが悲観主義者、まだ半分残っていると喜ぶのが楽観主義者である」

バーナード・ショー(1856年7月26日ー1950年11月2日)はアイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。

バーナード・ショーヴィクトリア朝時代から近代にかけて、様々な分野で活躍した才人である。94歳で亡くなるまでに書いた戯曲は53本。1925年にはノーベル文学賞を受賞した。この時固辞していたが賞金を寄付するという条件で受け入れた。映画分野ではアカデミー賞脚本賞を授与されている。教育家としてはロンドン・スクール・オヴ・エコノミクスの創設に尽力。政治家としては社会民主主義者としてイギリス労働党の前身のフェビアン協会に属した。

持論の菜食主義で90歳を超えても健康な生活を送った。自宅で庭の手入れ時にはしごから転落して骨折した時の手術の経過が悪かった為に死を迎えたというから、それがなければどこまで生きただろうか。自分が永遠に生きるのではないかと思うと空恐ろしくなると語っており、それが「菜食主義者の唯一の欠点である」と述べている。

また遺言によって、遺灰は先に亡くなった妻の遺灰と混ぜ合わされて庭園の小道に式散らされた。

「歳をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから歳をとるのだ」

「自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を恐れる」

「青春は若い奴らにはもったいない」

「有能なものは行う。無能なものは講釈する」

ある女優が「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」と言ったが、ショーは「私の肉体とあなたの頭脳を持った子供が生まれたら大変ですよ」と言ったという逸話も残している。ショーは舌鋒鋭い皮肉屋でもあった。

悲観主義者と楽観主義者の生態をこれほど上手に説明した警句にはお目にかかったことはない。主義とは思うに、性格による。