寺島文庫リレー対談。安藤忠雄(79歳)編。
・「青いリンゴの精神」。目指すは甘く実った赤いリンゴではない。未熟で酸っぱくとも明日への希望に満ち溢れた青いリンゴの精神。
・「独学」「見切り」「出会い」「勇気」「責任ある個人」「一人で」「信念をも持って進めば前に進む」「責任感あるリーダーシップ」「心に残る教育」「誇りを持った子ども」
・中之島の「子ども 本の森」。大阪市中央公会堂に100万円寄付した岩本栄之助。「光の教会」。以上の建物は私も訪ねている。
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明日からの戦線復帰に備えての準備。
・来週:知研。子ども図解塾。図解塾。大学院。
・再来週:延期していた9月刊行の本の取材手配。小田原。銀座。ZOOMで3本。
「名言との対話」用の7月10日以降の人選と本の注文。
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「名言との対話」6月27日。竹田喜之助「日本独自の伝統芸能・糸操りをしっかりと受け止め、より良いものに育てること。その良さをこどもたちに伝えること」
竹田 喜之助(たけだ きのすけ、1923年6月27日 - 1979年9月5日)は、日本の人形師。
岡山県邑久郡邑久町豊安(現・瀬戸内市邑久町)に呉服商の大店に生まれる。祖父と父の影響で幼少時から絵や書、クラシックや浄瑠璃にも親しんだ。岡山第一中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業後、旧制第六高等学校を経て、1943年に東京帝国大学工学部航空工学科に入学したが、敗戦で航空工学が学べなくなり機械工学科に転じた。
あやつり人形の結城孫昌(のちの竹田扇之助)との出会いで進路が一変する。「古くから伝わって来たものをどういう風に受け継いでいくかということは、大変な問題である。こういう問題に取り組むには、自分で身をもってその中に入っていってこそ何か考えられるのではないかというようなことを思い、それに自分のような者でも役に立つ場所があるのなら、ひとつやってみようという気になった」。卒業まじかに人形芝居の結城孫太郎一座に弟子入りし、結城糸城三を名乗る。1955年4月、結城孫太郎は竹田三之助と改名し、竹田人形座を設立し、寛文年間(1660年頃)からの伝統を持つ竹田人形芝居を復興させる。結城糸城三は竹田喜之助と改名し参加した。
竹田喜之助は伝統をふまえながら、からくり技術を導入して現代的な感覚の人形を約2,600体の糸操り人形を制作している。精巧で品のある人形は「喜之助人形」と呼ばれた。「斬新なプランを練り、アイデアを考える扇之助」と「それを実際に生かして制作する喜之助」のコンビ扇之助との名コンビで舞台やテレビで活躍し、1957年には傑作「雪ん子」で芸術祭賞優秀賞を受賞。
1965年の三之助の他界後は、養子となった兄弟子の竹田扇之助が跡を継ぎ、喜之助も扇之助の右腕として活躍した。1970年の大阪万博では住友童話館で市川崑監督の「つる」を連日公演し評判をとり、総公演回数は1,442回に及んだ。
竹田人形座は1972年からはヨーロッパ諸国やアメリカでも公演を行い世界的に有名になった。帰国後「日本独自の伝統芸能・糸操りをしっかりと受け止め、より良いものに育てること。その良さをこどもたちに伝えること」と定めて、撮影スタジオを「母と子のための公演」用に改装し精力的に公演を行なった。竹田座の地元足立区では竹ノ塚ホールに世界一を誇る人形劇場をつくっている。
宇宙船シリカ(NHK、1961年)、銀河少年隊(NHK、1963年 - 1965年)、空中都市008(NHK、1969年 - 1970年)、プルルくん(NHK、1974年 - 1976年)、あかおにぼんぼ(フジ、ママとあそぼう!ピンポンパン番組内)など、テレビ人形劇にも多くの作品を残している。
1979年8月31日に交通事故で遭い、9月5日に56歳の若さで死去した。
東大工学部航空学科で学んだ人形師という経歴と人物に興味をそそられる。美術家の飯沢匡は語っている。「西洋の学問の中でも近代的な航空工学といういわばメカニズムの粋を修めた喜之助さんが、人形の世界にそれを持ち込んだのですね。その意味で、からくりを蔑視してきた人形界の中で日本の伝統に新しい展開を与えたといっていいでしょう・・。」
1990年には扇之助の郷里飯田市に「竹田扇之助記念国際糸操り人形館」が開館。瀬戸内市の邑久郷土資料館内には「喜之助記念室、喜之助フェス記念室」が設置されている。2016年に開館した瀬戸内市民図書館「もみわ広場」には「喜之助ギャラリー」が設置された。
「日本独自の伝統芸能・糸操りをしっかりと受け止め、より良いものに育てること。その良さをこどもたちに伝えること」という志はまだ生きているようだ。現在も続いている人形劇の祭典「喜之助フェスティバル」も見てみたい。