福沢諭吉の教え「独立自尊」は中津の学校の校歌に刻まれている。

今年になって、福沢諭吉の『福翁自伝』『学問のすすめ』『文明論の概略』などを改めて読んでみて、その偉さに感銘を受け、その自由闊達さに救われる思いがしている。今年は、福沢諭吉について調べ、書くことにしたいと思う。

如水小学校や私の母校の豊陽中学は例外であるが、福沢諭吉の故郷・中津のほとんどの公立学校の校歌には、福沢諭吉の名前や教えが刻まれている。西洋の人体解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』として出版した功績のある前野良沢も歌い込まれている学校もある。

「福沢」「おしえ」「自尊」「偉人」「独立」「自尊」「独立自尊」「教訓」「先覚」「福翁」「福沢精神」、、、。

福沢諭吉という、日本の近代を開拓した偉人と、独立自尊という精神こそがこの町の近現代の伝統であることがわかる。私の母校の校歌にあるように「福沢精神受けつぎて」でいこうか。

小学校

  • 南部小学校「福沢の おしえの鈴のひびく街 明るいひかりあびながら 心きよめる わたしらを この世を照らす ともしびと 明日の世界が まっている この学び舎ぞ 南部校」
  • 北部小学校「独立自尊のみおしえに 長夜の夢をやぶりたる 福沢翁のいさおしを とむる扇の城のあと いく千代かけて仰がなん」
  • 豊田小学校「仰ぎ自尊の 碑は 力の泉 湧くところ 至誠勤勉 くさぐさの 教えの法の 鈴たかし」
  • 和田小学校「平和の旗のひるがえる 民主日本のゆくてには 独立自尊のおしえあり われらおこさん郷土和田」

中学校

  • 緑ヶ丘中学「かざすは自治の旗じるし 独り立ちて自らを 尊む大きみ教えの 常に導くわが歩み」
  • 中津中学「歴史にかおる 先覚の 自尊の教え 慕いつつ 山国川の 清流に たゆまず磨く 身と心 ああはつらつの いぶき満つ 中津中学 わが母校」
  • 東中津中学「光を空に集めては や山の朝の峰の色 偉人の教え 独立と 自尊の道をきわめよう 立て立て 今こそ 東中津」
  • 豊陽中学:福沢についての歌詞はない。作詞の嶋通夫は私の豊田小学校時代の校長で中津の文化人。

高等学校

  • 旧制中津中学「独立自尊の教訓を 垂れし先覚今何処 幽明境をへだつれど 偉人の跡ぞしのばるる 見よその功は山高く 見よその徳は水長し」
  • 中津南高校「見よ 新しき世紀の曙光 聞け 百歳を刻む音 日本を拓きし福翁の 独立自尊貴びて 受け継ぎ築く伝統の 歴史は煤たり 百星霜 世紀を画せし 我が母校」
  • 中津北校「世界の空に輝かむ 新に興る日本の 若き花こそわれらなれ 福沢精神受けつぎて ああ独立自尊の 中津北高校」
  • 中津商業高校「明治の御代のみちびきと 仰ぐや独立自尊の碑 福沢翁に先立ちて 前野良沢先生あり 進取の気象は年ながく わが中津に伝われり とりて進まんこの心」
  • 中津工業高校「扇の城に月澄みて 偲べばゆかし 自尊の碑 ああ伝統の 粋受けて 民族の明日を 担い起つ われらの 中津工業に 見よ栄光の 行く手あり」

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「名言との対話」2月6日。高井鴻山「放蕩宗」

高井 鴻山(たかい こうざん、文化3年3月15日1806年5月3日〉- 明治16年〈1883年2月6日)とは、江戸時代儒学者浮世絵師

長野県小布施町出身。酒造業で富を築いた高井家は天明の大飢饉時に倉を開放して困窮者を救済し幕府から帯刀と苗字を授けられた・

高井鴻山は15歳から16年間、絵画、国学、和歌、儒学漢詩朱子学、禅など文芸全般にわたって学んだ人である。この間、梁川星巌佐藤一斎佐久間象山大塩平八郎らと交流を持ってゐる。尊王攘夷公武合体論の論客でもあった。1836年の天保の大飢饉では、小布施の倉を開放して困窮者を救済している。

1840年天保11年)に当主となる。1842年に葛飾北斎が小布施を訪問し1年ほど滞在している。北斎は83歳、鴻山は37歳であり、祖父と孫とみえる年齢差であるが、肝胆相照らし、先生と旦那様と呼び合う仲となった。北斎は亡くなるまで、高齢や遠路を気にせず、4回にわたり、小布施を訪ねている。

2007年に、まちづくりで有名な小布施を訪問した。この町の名物は「北斎館」だった。31周年の2007年で700万人の来訪者を達成していた。80代半ばから北斎は高井こう山の招きを受けて、「富士越龍」などの肉筆画と、祭屋台の天井画を描いている。天井画は肉体的負担が大きいのだが、北斎は1843年の4度目の訪問時に完成している。平成10年に開催された国際北斎展の寄せ書きをみると、ドナルド・キーンや中島千波などの名前が見える。北斎研究所もこの中にあった。

近くの高井鴻山記念館では、北斎を招いた豪農商で、尊王攘夷論者としても有名な人物の記念館がある。佐久間象山とも親友でここで月に数度も激論を交わしている。そのときに使った火鉢もあった。

明治の時代になって、鴻山は文部省に出仕したり、東京で高井学校を開いたり、長野町に義塾を開くなどの活動をしている。

2004年に東北開発研究センターの地域ブランド研究会の委員長を仰せつかったことがある。まちづくりで有名な小布施町の取材報告の後、議論に入る。平成の大合併地域ブランドを組み合わせることが、時代性をとらえた展開になるという観点から、合併に揺れる湯布院町や自立を選択した小布施を選んだ。

私は湯布院町の取材班に入った。亀の井別荘の中谷健太郎、玉の湯の桑野和泉、湯布院観光総合事務所の米田誠司、アトリエときの時松辰夫、ゆふいんフローラハウスの安藤正子、玉の湯の溝口薫平、無量塔の藤林晃司、など思想や哲学を持ったすばらしい人物のオンパレードで、非常に収穫の多い調査旅行となった。 小布施も湯布院もどちらの町も旦那衆の中に、素晴らしい人材がいたことが、成功につながった。

翌年、「地域ブランド研究会」の成果物が、河北新報出版センタ-から出版された。この会はテーマも面白かったが、メンバーがよかった。地域づくりアドバイザーの結城登美雄さん。結城さんは芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した地域活性化のプロフェッショナルだ。現場をよく知っていてユニークな発言が多く、目を開かれたことも多かった。もう一人は古川市の農業振興課長の柏倉さん。宮城県内の公務員きっての論客で、市町村合併とからめた発言は生々しい。事務局の大泉太由子さんは東北活性化センターの主席研究員だが、進め方も上手で、まとめる力の高い能力の持ち主だった。私自身、湯布院にも調査旅行をしたり、研究会の議論でずいぶんと啓発された。結果的に、大変ユニークな提言に満ちたレポートになった。

さて、北斎のアトリエには、幕末から明治にかけての文人墨客がまず多く来訪している。北斎日課として毎朝、デッサンの腕がなまらないように獅子の絵を描くという習慣を持っていたが、小布施でもその習慣を守っていたという。北斎は自由な空気の中で巨大で緻密な天井画・天井絵を描いたのである。

高井鴻山は北斎の影響である妖怪画を数多く残している。この人は金銭面にはうとく、もっぱら使う人であった。花柳界でも遊びまくり、結果として資産の大半を失うことになるが、北斎以下おおくの当代一流の人物と接し、本望だったのではないか。自らを「放蕩宗」と称しているのは面白い。